お棺に入らないから骨をポキポキッ 延命治療の悲しき結末/医師が「不作為の殺人」を避けるための「平穏死」

2012-12-31 | Life 死と隣合わせ

お棺に入らないから骨をポキポキッ 延命治療の悲しき結末
dot.(更新 2012/12/30 16:00)
 老人ホームの配置医師として300例以上の自然死を経験、医療に頼りすぎない「大往生」を勧めて注目された中村仁一医師が、「自然死の秘訣」を語る。
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 高齢者は無理な延命治療をすべきではない。なぜか。後に残る人たちに「自然に死ぬ姿」を見せられなくなるからです。あるがまま死にゆく姿を見せるのは、先に逝く者の責務であり、最後の大仕事ですよ。
 最近の日本人は死ぬということをわかっていない。死は自然現象で本来は穏やかで安らかなはずなのに、今は苦痛の多い死に方が増えているでしょう。理由のひとつが「医療に関わりすぎる」こと。それで死がより悲惨でより非人間的になってしまっているんです。
 私は老人ホームに勤務して以来、12年間で300例以上の「自然死」を経験しました。最期まで医療が介入せず、点滴注射も酸素吸入も行わない。栄養を遮断して飢餓状態になると、脳内にモルヒネ様物質が分泌されるので、幸福感が味わえるようです。また脱水状態になると、血液が濃くなり意識レベルが下がるので、まどろんだ状態になります。1人、2人ではなく、300人がそのような静かな最期でした。人間には死の間際に「苦しみを防ぐしくみ」が生まれつき備わっているとしか思えません。
 ところがこの場に医療が入ると、幸福な死を阻害してしまうのです。私のいるホームにも、他の病院で胃ろうをつくった高齢者が30人ほどいます。胃ろう処置は昔は全身麻酔が必要でしたが、今は局部麻酔で10?15分でできる。でも胃ろうは元々子どもの食道狭窄のために考案されたのですよ。適用範囲が広がり、今や年寄りの延命措置としてすっかり有名になりました。
 しかし、どう考えても不自然です。90歳近くて意識がないのに一日3度胃ろうから栄養を送られ、体が動かないために次第に骨が変な形に固まってしまう。棺に入らないので骨をポキポキッと折ったりして……。死後まで痛々しい限りです。
 本来、医療には二つの目標があるはずなのです。一つは回復させること、もう一つはQOL(生活の質)が改善すること。この二つの可能性がない高齢者に対しての医療は、無為に本人を苦しめるだけ。医療は限定的に利用して死ぬときまで頼りすぎない、それが自然死の秘訣です。
※週刊朝日 2013年1月4・11日号
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医師が「不作為の殺人」を避けるための「平穏死」
dot.(更新 2012/11/25 16:00)
「胃ろう」という人工栄養補給によって、寝返りも打てずに、ベッドにじっと横たわったままの高齢者の数は30万人とも40万人とも言われている。この現実に「命を延ばす」ことだけが本当に正しいのか、と疑問を感じた特別養護老人ホーム「芦花ホーム」の石飛幸三(いしとびこうぞう)医師(77)は「平穏死」という新しい考え方を提唱している。その言葉の成り立ちを氏はこのように説明する。
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 2009年の夏ごろでしょうか。昔、お世話になった黒田和夫弁護士の事務所に挨拶に立ち寄ったのです。いま携わる芦花ホームの様子を話し、黒田弁護士にこうたずねました。
「医師が、延命治療をしなければ、本当に“不作為の殺人”になるのですか」
 そうしたら、私ひとりのために2時間使って不作為の殺人の定義について、講義をしてくれたのです。黒田弁護士は、「尊厳死や安楽死という言葉はあるけど、石飛先生が考えておられるのは、そのどちらともちがいます。肉体的にも精神的にも苦痛がなく穏やかに亡くなるというと、『平穏死』ですかね」
 私は思わずこう叫んでいました。「黒田先生。まさにそれです。『平穏死』という言葉をぜひ使わせてください」。
 我々に数人の医師や弁護士が加わり「平穏死」を法的に考える勉強会が始まりました。医師が安心して「看取り」医療をできるようになるための道標になればと、「平穏死」のガイドラインもつくりました。
 ひとつだけ、伝えたいことがあります。「平穏死」という言葉は、医師が延命を行わなければ“不作為の殺人”と責任を押しつけられることを回避するという、明確な目的をもってつくったものです。決してロマンチックな意味で命名した訳ではありません。
 家族も納得し、医師も安心して「看取り」をできる世の中にならなければ、患者さんを安らかにおくることはできないのです。
※週刊朝日 2012年11月30日号
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本人が望んでも難しい「平穏死」 客観性が壁
dot.(更新 2012/12/ 8 16:00)
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 人工呼吸、人工栄養、人工透析が3大延命措置と呼ばれています。
 延命措置を願う人の気持ちは、自然なことだと思います。本人が長生きをしたいと願い、家族が生きてほしいと祈るのは、人類が誕生して以来、変わらない本能でしょう。
 しかし、すでに本人が意思表示できない場合はどうか。残念ながら日本ではリビング・ウイル、いわゆる自分の終末期への希望は法的に認められていません。
 本人が事前に「不治の病かつ末期になったときに延命措置はしないでほしい」と文書に書いて判を押していた場合でも、延命措置を差し控えたり中止できないのが現実です。本人の希望や尊厳を尊重するにはどうしたらいいのかが、いま問われているのです。
 最近、厚生労働省や日本医師会、日本老年医学会、日本透析医学会が相次いで終末期医療のガイドラインを出しました。日本でも、患者さんの利益にならない延命措置は控えようという空気に変わりつつあります。しかし例えば病院で、本人がリビング・ウイルを表明していれば、ガイドライン通りに延命措置を中止できるのでしょうか。現実には、大変難しいと思います。
 なぜか。ご家族は訴えなくとも、経緯を知る誰かに告発されるかもしれないという危惧が常にあるからです。実際、担当医をよく思わない誰かから告発を受け、事件になった例もあります。
 最近もある病院では、こんなケースがありました。不治かつ末期の患者さんのご家族が1カ月に及ぶ延命措置の中止を希望したところ病院の倫理委員会にかけられました。しかしそれでも願いは叶いません。
 ご家族は、「中止しなければ、病院を訴える」とまで言いましたが、病院の答えは、こうでした。「これは延命措置ではない。救命処置だから中止できません」。
 チーム医療で多数の目がある病院では、判断に客観性を持たせる必要がある。が、客観性を考えた時点で、中止は不可能なのです。
※週刊朝日 2012年12月14日号
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看取りの現場で介護士と看護師がわかりあった瞬間
dot.(更新 2012/11/23 16:00)
 延命治療をしない「平穏死」というキーワードを通して、理想の看取りを一緒に考えている医師がいる。「平穏死」提唱者で著書もある、特別養護老人ホーム「芦花ホーム」の石飛幸三(いしとびこうぞう)医師(77)だ。石飛氏がこう語る。
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 ある入所者が家族や芦花ホームの介護士によって、安らかに看取られました。一生懸命に看取りをした介護士、家族の口からは互いに、「大切な場面に立ち会わせてくれてありがとうございます」という言葉が素直に出たのです。
 私も看護師も、それを聞いたときに胸に刺さっていた何かがストンと落ちました。看護師の態度もガラリと変わりました。
 以前は介護士が、ターミナルケアの状態にある入所者をお風呂に入れてあげたいと看護師に判断を求めても、「37.5度。熱があるんだから死んじゃうじゃない」と、一蹴していたのが、「じゃ、私も一緒にお風呂に入れましょう」と優しい言葉が出るようになりました。そうです。もうすぐ亡くなる人たちなのです。汗まみれの体を、せめてきれいにしてから旅立ってもらいたいと思うのは自然な気持ち。考えてみれば単純なことでした。
 医師も看護師も介護士も家族も、みんなが入所者のことを第一に考え、物事の本質を見るようになったのです。芦花ホームは、人生の最終章を穏やかに受け止める場所。亡くなる瞬間になって、病院に送るようなことはしない、とみんなで決めたのです。
※週刊朝日 2012年11月30日号
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「胃瘻は一種の拷問 人間かと思うような悲惨な姿になる」中村仁一著『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 2012-05-10
近年、人工呼吸器とともに議論の俎上に上がっているのが、「胃ろう」 2012-04-23 
『大往生したけりゃ医療とかかわるな』/食べないから死ぬのではない、「死に時」が来たから食べないのだ 2012-04-23 

         

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