「20ミリシーベルト」に根拠なんかない いい加減な、あまりにいい加減なこの国の安全基準
小佐古内閣参与はなぜ辞表を叩きつけたのか
2011年05月17日(火) 週間現代,岸文子
本当は危険でも、安全と言ってきた原子力村。その住人だった彼までもが逃げ出した。しかも、涙を流して。ということは、どういうことなのか。政府は慌てて、彼の口を封じた。
*彼こそ、放射線防護の第一人者
もう政府の発表など、いっさい信用できない---そう思わせる、突然の内閣官房参与辞任劇だった。
4月29日午後6時、衆院第一議員会館の会議室で会見に臨んだ、小佐古敏荘東京大学大学院教授は、悔しさのあまり涙ぐみ、言葉に詰まりながら科学者としてのプライドを示した。
「この数値(校庭利用基準の年間20ミリシーベルト)を、乳児・幼児・小学生にまで求めることは、学問上の見地からのみならず・・・私は受け入れることができません。
参与というかたちで政府の一員として容認しながら走っていった(基準値引き上げを強行した)と取られたら私は学者として終わりです。それ以前に自分の子どもにそういう目に遭わせるかといったら絶対嫌です」
これまでに政府は、原子力安全委員会などの「権威」を背景に様々な基準値を公表し、国民に対し「この数値以下の被曝であれば安全」とアナウンスしてきた。
ところが、その内閣の一員だったはずの東大教授が、政府に抗議し、参与を辞任するという。小佐古教授が暴露したのは、政府の基準値がいかにご都合主義的に決められているか、という事実だった。乳児、幼児をはじめ国民への健康被害よりも、原子力行政を優先しようという国の姿勢はいまだに変わっていない。
小佐古氏は震災後、菅直人首相が相次いで参与に任命した6名の専門家のうちの1人だ。自身も原子力工学の博士号を持ち、東京大学大学院生時代に小佐古氏に師事した空本誠喜代議士が、細野豪志首相補佐官を通じて参与に推薦した。
専門は放射線安全学。政府が安全基準の参考にしているICRP(国際放射線防護委員会)の委員を'05年まで12年もの間務め、放射線被曝の安全基準値のグローバルスタンダードを決定してきた。
枝野幸男官房長官は小佐古氏の会見の翌日、「小佐古氏は原子炉が主に専門とうかがっている」と弁明していたが、実際には内閣が参考にしている国際基準値を策定してきた張本人であり、日本における放射線防護の第一人者なのである。
「小佐古氏はずっとチェルノブイリ原発事故の研究をしていた人。他の参与には菅さんの母校の東工大関係者が多いのですが、放射線防護の理論では小佐古氏の右に出る人はいないでしょう」(民主党関係者)
ところが、結果的に小佐古氏はほとんど事故対策にかかわることができなかったという。
参与就任以来、小佐古氏と行動をともにしていた空本代議士は、本誌に分厚い報告書を示した。
「福島第一発電所事故に対する対策について」と題された、A4用紙100枚にも及ぶその冊子。小佐古氏が、原子力災害を避けるため、3月16日の参与就任からおよそ1ヵ月半かけて寝る間も惜しんでまとめた渾身の報告書だ。
しかし、この小佐古報告書にあるような提言を、官邸はことごとくないがしろにしてきた。
その上、菅首相は、自身がブレーンとして任命したにもかかわらず参与就任の際に顔を合わせた程度で、小佐古氏と原発事故についてまともに意見交換することは一度もなかった。
小佐古氏も手をこまねいていたわけではない。あらゆる手段で、提言実現のために動いていた。
プラントに関する提言は細野氏に、放射線被曝に関する提言は福山哲郎官房副長官に上げることになっていた。もともと参与就任にも関与していた細野氏に伝えた意見は採用されることもあったが、福山氏に上げた内容はまるで聞き入れられなかった。
それでも別ルートで、原子力安全委員会にも助言を続けたが、これもほとんど無視された。最終手段として、面識のあった班目春樹・原子力安全委員会委員長に直訴したが、にべもなかったという。
*どんどん基準値が甘くなる
そうしている間にも、安全基準値の上限は、ご都合主義的にどんどん引き上げられていった。
現在、福島原発で復旧に当たっている作業員たちの被曝限度は、緊急時において年間100ミリシーベルトと震災前から決められていた。被曝線量が100ミリシーベルトを超えると、線量に応じて、がん発症率が直線的に増えることが、広島と長崎の原爆被爆者の追跡調査から明らかになっている。つまり、線量が2倍になればがん発症率も2倍になる。
その上限数値を厚労省と経産省は3月15日、40年から50年前の、原爆被害の経験を生かせていない時代の考えに基づく、250ミリシーベルトという数値に急遽引き上げた。
福島原発における作業は、現場経験のある者でないと困難で、人員の確保が難しい。完全に行政側の都合による数値の引き上げである。
文科省の放射線規制室が設置する放射線審議会が「妥当」と答申した数値ではあるが、その放射線審議会は限度策定にあたって一度も会議を招集せず、メールのやりとりのみで意見を集約し、その数値がそのまま決定事項となった。
さらに、それでも人手が足りなくなったため、今度は500ミリシーベルトに再引き上げしようという審議も始まっている。
明確なビジョンがなく、国際基準も見ず、ただ問題が起きたらそれに対応するだけ。小佐古氏が「モグラたたき的」と批判するのもうなずけよう。
元日本原子力学会会長で、小佐古氏と親交の深い田中俊一氏はこう小佐古氏の当時の心境を明かす。
「小佐古氏とは昔からの友人で、参与になってからも3月末頃に一度電話しました。そのときすでに彼は、『(政府が)全然言うことを聞いてくれない。何を言っても届かない』と嘆いていました。私は『首相の一番近くにいるんだからしっかりやれよ』と言ったんですけどね。
彼は昔から歯に衣を着せないで話す人。広島出身で放射線対策への思い入れも強いし、相当のプレッシャーと責任を感じていたんじゃないでしょうか」
小佐古氏の参与就任に関わった空本代議士も辞任の経緯をこう話す。
「小佐古氏は徒労感を抱いており、実は4月に入った頃から『もう辞めたい』と相談を受け、具体的に検討を始めていました。結局4月27日に官邸に『30日付で内閣官房参与を辞任したい』と辞意を伝えに行きました」
岡本健司秘書官には慰留されたが、その日は菅首相と会って話すという約束だけして帰った。
しかし首相サイドからはその後も一向に連絡がない。仕方なく期日が翌日に迫った29日、辞任届を官邸に提出し、辞意表明会見を開くに至った。
今回の事故以前は、小佐古氏はいわゆる〝原子力村〟の住人と見られていた。
「小佐古氏は私が原告側の証人に立った原爆症認定集団訴訟において、国側の証人として裁判に何度も出廷していました。
裁判の過程でわかったことですが、彼は電力会社に頼まれ、原発の安全性についてこれまで何度も講演してきていました」(沢田昭二・名古屋大学名誉教授)
実際'02年の5月16日、原子力安全・保安院が後援する「原子力安全エネルギー月間」のため、福島第一原発で所員を相手に特別講演を行っている。
そんな人物が100枚もの報告書を叩きつけ、涙の辞任をした。原子力村の住人でさえ黙っていられないほど、政府の放射線被害対策はお粗末だということだろう。
しかも、小佐古氏が辞任後、記者を呼んで勉強会を開こうとすると、官邸から電話で、
「老婆心ながら、一般の公務員と同じく、守秘義務がございますので」
と横槍を入れられ、中止を余儀なくされた。現在も「守秘義務の範囲がわからない」という理由で小佐古氏はメディア露出を控えている。
*成人でも危険な数値なのに
そもそも、小佐古氏が学者生命を賭して否定した、「校庭での放射線被曝量年間上限20ミリシーベルト」という数値は、はたして妥当なのだろうか。
ICRPの'07年勧告では、「非常状況での避難参考レベル」として1~20ミリシーベルトという範囲が示されている。安全基準は通常この幅の中で、できるだけ低く設定するが、今回はこの範囲内の最高値。つまり、非常状況を前提にしても最も高い数値なのだ。
小佐古氏は会見で、「年間20ミリシーベルト近い被曝をする人は、約8万4000人の原子力発電所の放射線業務従事者でも極めて少ない。10ミリシーベルトでさえウラン鉱山の残土処分場の中の覆土上でもなかなか見ることのできない数値」とし、成人でもそうそうない被曝量であり、それを子どもに求めるのは許しがたい、とこの数値の非常識さを説明した。
社団法人日本医学放射線学会の発表によれば、小学生くらいまでの子どもは大人に比べて、放射線から受ける影響が2~3倍高い。さらに晩発性の影響を合わせればより危険性は高い。
「政府の20ミリシーベルトという基準は、内部被曝を考慮していません。
外部被曝というのは、ガンマ線によるもの。内部被曝はガンマ線より影響範囲は小さいがずっとエネルギーの高いベータ線やアルファ線によるもので、外部被曝より影響は深刻です。私の試算では、内部被曝の影響は外部被曝の5倍に達する恐れがある。もし外部被曝が20ミリシーベルトなら、内部被曝は100ミリシーベルトに達するかもしれない。
小佐古さんは、原爆症認定訴訟ではずいぶん教条的な人という印象を持っていましたが、今回は内部被曝を問題にしていて、驚きました。裁判などを経て、彼も認識を改めたのかもしれません」(矢ヶ崎克馬・琉球大学名誉教授)
政府が決定した、「20ミリシーベルト基準」が、内部被曝や子どもの将来に対する影響を精密に考慮したものでないことは、もはや明白だ。
ご都合主義の、あまりにいい加減な基準で国民を欺くのは、もういい加減にしてほしい。
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