「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【2】 光市事件最高裁判決の踏み出したもの

2008-04-22 | 死刑/重刑/生命犯

「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法
1、三人の元少年に死刑判決が出た 木曽川・長良川事件高裁判決
2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの
3、裁判の重罰傾向について
4、裁判員制度と死刑事件について

2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの
安田 木曽川・長良川事件の1審判決はかなり杜撰だったけれども、事件をそれなりに見ようとする態度が見られたと思います。というのは、木曽川の事件については殺人罪を認定しなかった。裁判所は、子供たちの曖昧模糊とした意思とバラバラな意思疎通の中で、解決策も歯止めもないまま事態だけがどんどん悪い方向に進行していくという事案の実相をそれなりに見ていたんだろうと思うんです。しかし、それにもかかわらず一人だけを死刑にしたというのは、やっぱりあの被害者の数との関係で、ものすごい政策的な辻褄合わせをしたんだろうと思うんです。ですからあの判決はたいへん中途半端な判決で、それが、高裁につけいるスキを与えてしまったんだと思います。検察官にとっては大変批判しやすかったんだと思うんです。
 高裁は、それぞれの子供たちが細胞としては別々かも知れないけれど、3つ、4つ集まってからまると1つの生物となるとでも考えたのか、3人をまとめて故意を認定し、それをテコに3人を死刑にしてしまうという、ものすごく荒っぽいことをしてしまいました。あの判決のどこを読んだって、法適用の厳粛さ、つまり3人に死刑を適用しなければならない必然性は出てこない。もちろん、熟慮の痕跡などもまったくない。ましてや教訓的でもない。単なる決算書とほとんど変わらないような中身だったですね。僕は、あれを見てやはり司法の危機というのをすごく感じたわけです。
 それに比べ、アベック殺人の高裁のときは、裁判官は悩んだですね。思いっきり悩んで、しかも、子供たちを死刑にするのは自分たちとして、大人たちの社会として許されるだろうかという問いかけがその中にありましたね。苦渋の選択が判決の中から読みとれたけど、今回ははっきり申し上げて何一つなかったわけです。真面目さが欠如していますね。
 それは司法そのものが、裁判官も含めてですけれど、思想とか哲学とかそういうものを持ってこなかったことの結果だろうと思います。すでに司法のメルトダウン現象が起こっているんですね。それはどういうことかというと、司法が担うべき役割、その重要な要員である裁判官・弁護士・検察官が、自分たちが果たすべき職責を完全に忘れてしまって、一般世論、あるいはメディアと完全にシンクロしてしまっているんですね。それは、時の権力や勢力に一切支配や影響をうけることなく、超然として、法にのみ支配されてその職責を遂行する、つまり、刑事司法の場面では、違法捜査を抑止し、事実を徹底して解明し、有罪の場合はなぜこのような事件が起こったのかというところまで事案を掘りさげ、公正に刑を量定すると同時に今後、被告人が生きていくすべを指し示す、そういう職責を司法は担っているんですね。ところが、このような職責を全部放棄して、世間相場で物事を見切って事件を処理してきた。司法のメルトダウン現象は、司法全体の怠慢の必然的な結果なんだろうと思います。
 木曽川・長良川の事件の判決は光市の事件の判決と軌を一にしていますね。それは、事実解明の努力の欠如と世論への徹底した迎合です。それで、凶悪ということが今日のテーマになっているんですけど、僕は凶悪とは、見る人のイメージがそのまま反映されて凶悪という表現をとっているものであって、結局、自己の価値観というか自己の傾向をそのまま表現したものだと思うんですね。マスコミは、いろいろな事実がある中で、視聴者や読者の凶悪のイメージと合致する事実だけをつまみあげて強調していく。捜査官も検察官もそうだと思うんですよ。数ある事実の中で被告人が有罪だという事実と凶悪だという事実だけを取り上げて事件を構成していく。時には事実をねつ造したりします。そして弁護人も裁判所もまったくそれに汚染されてしまって、何らそれに抗するだけのものを持っていない。ですから、よってたかってみんながこれでもか、これでもかと、被告人に凶悪というイメージを叩きつけていく。叩きつけるのは事実ではなくイメージなんですね。もはや司法はリンチの世界になってしまっていると思いますよ。
 有罪・無罪だけでなく、量刑も被告人にとって重大なことです。ましてや、死刑か否かは決定的です。平川先生がいらっしゃるので僕は苦言を呈したいんですけど、被害者感情が刑の重さを決める上でどういう位置を占めるのか、あるいはどういう位置を占めるべきかということについて、刑法学の中で、まったく議論がされてこなかったんですね。犯罪の成立とかそういうことについては、熱心に議論がなされてきた。そして、それが刑が無限定に拡大していくことへの歯止めになってきた。しかし、被害者感情についての議論は皆無なんですね。そういう中にあって、被害者の意見陳述や被害者の訴訟参加など、被害者感情が一気に刑事司法になだれ込んでこようとしている。今のままでは、量刑だけでなく犯罪の成否についても、被害者感情に支配されるという刑事司法の総崩れ現象が起こるのではないかと危惧しています。現に、光市の事件では、最高裁をはじめ、1,2審も、全て量刑の議論だけに終始し、事実の解明がまったくなおざりにされているんです。
 本来、司法は冷静で、客観的で、そして理性的でなければならない。司法の誕生は、政治的思惑や私的制裁あるいは被害者感情からの分化の歴史だったと思うんですよ。ところが司法の側にこれを守りきるだけの力がないから、その垣根が総崩れになっている。司法は時の政権におもねり、世論や感情に同調し、もう手がつけられない状態になっている。弁護士、検察、裁判所、司法全体の暴走状態が始まっているという気がするんです。木曽川・長良川の高裁判決、光市の最高裁判決は、そのはしりだと思うんです。

平川 今まで刑法学が量刑の問題をやってきていないではないかというご批判は、その通りだと思います。今までの刑法学は、犯罪成立要件、いわゆる犯罪論のところばかりやってきた。量刑の問題は、刑法学の隅っこで、ほんのわずかしかやられてきていないということは、おっしゃる通りです。そして、量刑の理論的研究と実際の量刑問題が、なかなか結びついてこない。一方でいわゆる量刑相場の分析が行われ、それとは別のところで量刑責任論などの形でまったく理論的な研究がされていて、両者が結びついていない。理論と実際の量刑を結びつけるような量刑理論がなければいけないのですが、実際の量刑の場面で有効性を持つような研究がないことは、おっしゃるとおりです。最近は、量刑研究も徐々に進みつつありますが、まだまだこれからの課題です。そういう意味では、刑法研究者は怠慢だったし、今でも怠慢だろうと思います。

安田 平川先生を非難しているわけじゃなくて(笑)

平川 それから、裁判所が悩まなくなっているということは、最近の判決を見ていると、私もそう感じます。しばらく前までの判決は、それなりに悩んだ形跡がうかがえるようなものが多かったと思います。
 永山判決がその後の判決の流れを作っているわけですが、あれも、よく読んでみると、それなりに悩んでいますね。しかし、最近は、永山判決の悩みのようなところもすっ飛ばして、永山判決に挙げられている基準だけを形式的な一覧表にして、それにポコポコあてはめて結論の正当化の理由にしているような判決が少なくないように感じます。中には、永山判決に依拠した場合に本当にこういう結論になるんですか、と言いたくなるようなものもある。今回の光市事件の判決もそうですが、判決文をよく読んでみると、実質的には永山判決の基準の変更になっているのではないか、少なくとも永山判決はそういうことを言っていないのではないかという気がするのです。最高裁は、そこまで来てしまっているということだと思います。
 私は、この背後には、裁判員制度が影を落としているように思います。裁判員制度になれば、一般の人たちの処罰感情が量刑にもろに反映していく可能性があるわけです。どうせそうなるのだから、ここで自分たちが頑張ってもはじまらないというような意識が、裁判官の中に生まれはじめているのかなと思うのです。
 しかし、むしろ、この際、裁判員制度をにらみながら、量刑はどうあるべきかをもう一度きちんと考えなおして、裁判や判決の中できちんと押さえておくことが必要だと思います。そうでないと、裁判員制度になったら本当に量刑が一般の人の処罰感情に流されていってしまうのではないか、という危惧があります。

村上 裁判員の問題については、確かに一般の人々の感情がもろに裁判に反映されるという部分もありますし、逆に裁判員の市民の方が裁判に参加されることによって、死刑というものを判断することが非常に勇気のいることであり、むしろ市民の人たちも躊躇するかもしれないという見方も一方ではあるわけですね。そういう場合に、今回の光市の判決はある意味では先頭に立って、こういう時はこうするんだというのを国民みんなに知らしめたという役割があるんだとおっしゃる弁護士もいます。

安田 僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
 ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょうが、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまうんですけど。

加藤 ちょっと話がそれますけど、少年法の領域でもやっぱり原則検察官送致という形で、これも保護優先を逆転させていますでしょ。要するに検送したくないんなら保護の証明をちゃんとやれっていう形でしょう。今度廃案になって、また出てくるであろう、児童相談所優先も見直そうとしています。要するに原則と例外を逆転させてしまうという形で、従来踏襲していた、まさに深く人間を理解しながら、世の責任、大人たちの責任を問うていこうという少年法の原理というのを、「健全育成」という文言だけ残しながら、空洞化させていく流れというのは、今おっしゃった流れと軌を一にしてます。

安田 木曽川・長良川の事件でもそうですけれども、光市の事件でも、少年に対してどう大人たちが向き合うか裁かれる少年にとって、大人の最たるものが司法ですから、司法は、子供たちを裁くに当たっては、子どもたちに対する配慮とか、子供たちに対する大人の責任とか、そういうものが織り込まれなければならないのに、それが一切出てこないんですよね。最高裁判決は、子供というだけでは死刑回避の理由にならないというのですよ。しかし、子供を死刑にしなければならない司法って一体何なんでしょうね。

加藤 多少、感情論になるかもしれないですけど、たとえば、木曽川・長良川事件は、私は足で稼ぐ調査ですから、現地、現場へ行く。彼らが育った家や近辺や環境を回るわけですよ。立ち寄ったところで、そこで何が見えてくるのか。彼らがどういうふうに息をしながらどうやって生きてきたのかということを。全部に行けとは言いませんよ。でもそこの痛みを感じながら大人たちが作りあげてきた側面、やったことの責任だけではなく、そうしている社会全体がその痛みをどう共有しながら、犯罪を起こさない仕組み、社会を作っていくにはどうするかという問題提起がなきゃいかんわけです。それは捨象して、誰がどうであろうと過去は関係なく、ここでやったことだけを裁く。もう少年法の原理なんてどこかに飛んじゃいますね。個別にちゃんとしっかり見て、慎重に判断しましょう、若くして犯罪にいたる場合にはそれなりの理由があるはずだというその疑問すらなくしてしまったら、もうタテマエだけですね。

平川 少年事件の中核には少年のコミュニケーション能力の欠如があるように感じるのですが、大人もコミュニケーション能力をなくしているのではないでしょうか。裁判官も(笑)。少年事件への対応の基礎には少年と大人とのコミュニケーションがなければなりませんが、それができていない。裁判官と少年、裁判官と弁護人、裁判官と社会との間のコミュニケーションがきちんとできていないのではないでしょうか。

加藤 さっき安田さんの言われた、3人の子を死刑にしなきゃならない必然性というのはどう説明するんでしょうかね。

安田 帳尻だけですよね。

加藤 彼らの社会との接点だとか、どう生きてきたのか、その中で生きる重たさ、その等価として死なんて対置してないですよ。非常に浅薄な感じがしちゃうし、失礼ですよね。

平川 裁判官は、被告人とも、弁護人とも全くコミュニケーションしていない。結論だけをぽんとくっつけているだけのように感じます。

安田 僕はこの間、光市の事件でかなりの脅迫電話を受けたわけですが、そういうのと対応しているんですね。私は、凶悪だと非難し、死刑にすることを求める彼らの底意に、凶暴性、凶悪性というのをものすごく感じるんですね。飛躍してしまうんですが、僕らは体験していないけれども、戦前に農村なんかで普通どおり生活していた人たちが兵士にとられて中国大陸なんかで突然残虐な行為をやってしまう。ああいうような状況に今なりつつあるのかなという気がするんです。それは一般市民だけじゃなくて裁判官も含めて底意の中の凶悪性というのは徐々に堆積してきているのではないか。そして、来年、再来年ぐらいになると、底意の凶悪性が表に出てきて、社会全体が凶悪化するような気がするんです。
 やっぱり僕に脅迫電話をかけてくる人の底意と、それから今回の最高裁の裁判官が書いた文章とが大変よく似ているんですよね。事件を「冷酷、残虐、非人間的な所業である」と決めつけて最大限の非難をし、しかも被告人に有利な事情をことごとく否定したうえ、1審、2審の6人の裁判官が悩んで出した結論を、著しく正義に反するとはなから否定しているんですよ。乱暴でひどく感情的ですよね。「いのちの大切さ」を教えるどころか、「いのちをないがしろにしろ」にしているんですよ。先ほども言いましたが、中国大陸で人を殺していった発想と同じですね。「ちょっと待て」、「どのようなことがあっても、やってはならない」という毅然とした態度や、「う~ん、なるほど」と人をして納得させるものは何もないんですね。そこらあたりというのは、裁判官がどんどん理性も思想性も失ってきたことの結果ではないですかね。
 それは、同時に、一般市民なりマスコミが裁判所に対して尊敬も期待もしないことの裏返しであると思います。裁判所は、たとえば、目の前に憲法違反の事実があるのに憲法判断を回避する、目の前に苦しんでいる人がいるのに、10年も20年もかけないとその人たちは救われない。薬害も公害も、なかなか国家の責任を認めない。他方で、人を処罰することにおいては拙速を極める。司法は、国家の間違いを正したり人を救済することをしてこなかった。光市の最高裁判決のように、「冷酷」「残虐」「非人間的」と最大限の非難の言葉を並べて、もっぱら人を処罰するばかりですから、マスコミも市民も、司法に厳罰を求めるんですね。「殺せ」、「吊るせ」とガーッと騒げば司法は簡単に動くものだと、実際動いてしまうんですけどね、そういう、全体としての同化現象というか軟弱現象が起こっているという気がします。

加藤 そうですね。凶悪合唱団が、全体としては自分自身の中にあるそういう凶悪さも揺り起こして、命を尊ぶという社会規範をどんどん後退させて、ある意味戦争状態に入って、導いちゃっている危険性というのをどれだけ感じとれるかが課題だと思います。

安田 ですから、あんな悪い奴はすぐ殺してしまえ、あんな奴を弁護するお前も殺しちゃえ、司法なんて全く必要ないという話が、何のためらいもなく湧き上がるんですね。今までの、戦後何十年と続いてきた教育はなんだったのですかね。何の役にも立っていなかったということなんでしょうね。

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「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【4】裁判員制度と死刑事件について
「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【3】裁判の重罰傾向について
「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【2】 光市事件最高裁判決の踏み出したもの
「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【1】3人の元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決
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