「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【1】3元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決『2006 年報・死刑廃止』

2007-09-23 | 死刑/重刑/生命犯

『2006 年報・死刑廃止』特集“光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか”より
「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法

1、三人の元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件
2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの
3、裁判の重罰傾向について
4、裁判員制度と死刑事件について

加藤幸雄(かとうさちお)日本福祉大学
平川宗信(ひらかわむねのぶ)中京大学
村上満宏(むらかみみちひろ)弁護士
安田好弘(やすだよしひろ)弁護士、FORUM 90

1、3人の元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決

司会 昨2005年10月14日に木曽川・長良川事件という少年による事件の控訴審判決がありました。01年の名古屋地裁判決では1人死刑、2人無期判決だったのが高裁では3人とも死刑判決が出て非常に驚いたのですが、この弁護人だった村上さんからこの事件について話していただけませんか。
村上 名古屋の事件というのは、いわゆる木曽川・長良川事件といわれるリンチ殺傷事件(1994年)で、19歳前後の少年たちが、大阪で1人の若者を死に至らしめ、その後愛知に移って、愛知の木曽川で、1人の若者を死に至らしめ、そして長良川河川敷で2人の若者を死に至らしめた事件であります。
 その前に、名古屋では大高緑地アベック殺人事件(1988年)というのがあり、当時、少年または少女たちによる凶悪犯罪として大きく報道され、それに続くものとして、この木曽川・長良川事件が起きましたので、名古屋では相当衝撃的な事件として報道されていたわけです。
 この事件は、少年たちが出会って集団になってから20日前後から1ヵ月半程度しか経っていない段階でこの犯罪が起きているというのが特徴的です。
 この木曽川・長良川事件は、1審で1人が死刑で、2人が無期となりました。そして、そこで、死刑と無期に分かれた論理は、主犯格か従属的な立場だったかが主な形で区別されたわけです。その後、控訴され、検察官は3人ともに死刑を求刑し、名古屋高裁におきまして3人とも死刑判決が下されたのです。
 裁判をやっていくなかで、私が一番感じたことですが、この木曽川・長良川事件以外の他の事件の中で被害者の方の意見陳述という制度が導入されてきまして、被害者感情が裁判にそのまま導入されてきているなぁというイメージがありました。でもそれは、犯罪事実の認定だとかそういうことには影響しないと言っているんですけれども、被害者遺族が被害感情を強く法廷で言うことによって、裁判官は、被告人にとって一番シビアな犯罪事実の認定を選ぶというような効果があるのではないかという危惧感をもっておりました。
 当時、この木曽川・長良川事件で自分が担当している被告人に対して死刑判決はないと確信しておりました。証拠調べが終わった最後に、4人の遺族の代表的な方が、被害者意見陳述で痛烈に被告人3人を非難しました。そこでは、死刑という言葉は使われてはいません。ただ、この3人は絶対許せないという形で、法廷にそのままの形で感情が入ってきました。そのときに、この被害者意見陳述が裁判所にどういう影響を与えるんだろうと危惧感を感じました。実際、判決を聞いたときに、被害者意見陳述の内容がそのまま判決の構成になっているというのを感じました。つまりその被害者遺族の方は、1審から2審までずっと法廷を傍聴していて、かたや裁判官は1審と2審で変わりますので、ずっと法廷を傍聴している被害者遺族のおっしゃられることが非常に重いものになる。その状況の中で被害者意見陳述という形でその被害者の方が、この3人は絶対許せない、そしてその根拠を、裁判の中での事実認定を引用しながらお話しをされますと、裁判官の心証に強烈に影響を与えないわけがないと思われるんですね。後から判決を見たときも、ほとんど同じじゃないかというのを感じました。
 その後、僕はいろんな大学で学者の先生とお話しする機会がありまして、裁判実務では、被害者の意見陳述というのは死刑にとって大きな影響を与えるんだということを話させていただきました。実務をわかってらっしゃる学者の方はそれはそうだとおっしゃってくれるんですけれど、そうではない学者の方たちは、死刑か無期かという量刑を判断するときに被害者の意見は、量刑を根拠づける理論的なものはそれほどないはずだとおっしゃっていました。でも、いま実務では非常に被害者意見陳述というのは怖い、被害者の感情は怖いと、それを私が肌で体験したのがこの木曽川・長良川事件だったわけです。
  そして今回、安田先生が担当されている光市母子殺害事件では、マスコミに被害者遺族の方が強い口調で死刑を求めておられます。あとで安田先生からお話しになるかと思いますけれども、あの事件でおよそ破棄差し戻しなんていうのは考えられません。あれは死刑なんて考えられない事案です。でもそれが破棄差し戻しになったその根拠は、被害者の方の頑張り、つまり被害者感情への裁判所による最大限評価にあったと思います。今回、裁判の中だけではなくて、全国的にそれがはっきりしたのが、山口県光市の母子殺人事件ではなかったかというふうに僕は感じています。
*大阪・木曽川・長良川事件
 1994年9月28日から10月8日の11日の間に、少年が集団となって4人を死に至らしめた事件。これら事件は大阪府出身のKA(19歳)、名古屋出身のKM(19歳)、大阪府出身のKT(18歳)らが、9月28日、大阪道頓堀で26歳男性に言いがかりをつけ拉致・暴行・死に至らしめ、ついで10月6日、遊び仲間だった男性を長時間にわたって暴行をし木曽川河川敷で死に至らしめ、7日ボウリング場で男性3人に言いがかりをつけ金を奪い拉致・暴行をし、翌朝未明に長良川河川敷で2人を死に至らしめた。
 01年7月9日名古屋地裁(石山容示裁判長)はKM被告に死刑判決を、KJ、KT被告に無期懲役判決を出した。そして05年10月14日名古屋高裁(川原誠裁判長)は1審が傷害致死罪とした木曽川事件に殺人罪を適用、被告3人の役割もさほど差異がないとして3人に死刑判決を出した。

司会 被害者が法廷で陳述するというのは、それが初めてなんですか。
村上 初めてではなく、他の事件ではよくやられていました。たとえば死刑事件じゃなくて、交通事故による死亡事故などの個別の事件の中で最後に被害者意見陳述をやるんですね。刑事弁護人をやっていますと、被害者の方が法廷に来られて意見陳述されるのは裁判官に影響を与えているな-というのは実感するんですね。死刑の問題にはさすがにそんなに、と思ったんですけれども、木曽川・長良川事件で初めて実感させられたのです。被害者遺族の感情が大きな要因だったと私は考えています。
司会 加藤さんはこの事件で犯罪心理鑑定をやられたわけですが、この判決をどう感じられましたか。
加藤 どうしても世間はマスコミの第一報道で影響を受けますから、行為がセンセーショナルに報道されればされるほど、凶悪さがクローズアップされる。それは、社会防衛上ある役割を果たすかもしれないけれども、それが独り歩きしちゃってるんですね。ですから凶悪な行為イコール凶悪な人格。凶悪な人格というのはないんですけれども、そういう図式がスポーンと入っちゃうんです。
  ところが、たとえば学生を法廷へ連れていくとか、あるいは鑑定書を少し読ませると凶悪イメージがコロッと変わるんです。単純な話ですね。要するに凶悪な人格なんてない。その人の長い長い、あえていえばソーシャルリスクを負ったすごく苦しい苦難の人生があって、特に未成年の犯罪の場合には未完成の人格像がそこにあって、しかも、変な言い方しますけど、凶悪犯罪ができるほどしっかりした人格形成ができていない(笑)。あるいは凶悪犯罪をコーディネイトできるほど計画性や準備性を持てない人たちの集まりがそこにいるということに気づくわけです。
  そうすると奇妙なことが起こるんですね。凶悪というセンセーションは、あれは何だったんだろうと。要するに虚構がそこに存在するだけであって、実像を見た途端に、それは全く市井の人物で、それこそもっと卑近な言い方をすると、法廷で犯罪者の顔を見ただけで、ぜんぜんイメージが違う。凶悪な人格なんていう全く存在しない人格を頭の中に描いているわけですよ。ところが、生の姿に触れて、成育史に触れて、その重たさに触れて、それからその犯罪者が未熟な顔(人格)であると、凶暴とは程遠い犯罪プロセスを見て、これは全く違うと。自分たちが見ていた凶悪というのは全部すっ飛ぶ構造になるわけですね。
  報道側について言えば、たとえば裁判になってそこで丹念に主張されたり中身が明らかになったものをきちんと伝えるという役割については非常に弱いですよね。だからセンセーションにバーンと、しかもこれはまだわかっていないところだから、あることないこと混じっちゃう危険性がある。真相解明というところで、きちっとはっきりしてきた中身がそのまま正確に伝わるだけで評価は全く違うと思いますね。それがなされていない。
  鑑定の仕事はまさに真相解明で、単純に言えば人格を明らかにする。凶悪な行為をしたから凶悪な人格であろうという推定を、裁判体というのはよくやっちゃう危険性があるんです。そうじゃなくて、やっぱり市井の一人一人の人格を形成しながら、成育歴、家族歴、社会関係がずっと進行してきて、ある時点から、「点」である犯罪事実行為に至る「面」の心理・社会的な背景があって、そこで共犯関係があって、事件に流れていって、結果的には凶悪とラベリングされる行為に着地するんですけれども、そのプロセスやその生きざまということを考えた場合に、それは凶悪とは全く無縁なんですね。むしろそこへ行かざるを得ない必然性と偶然性とがないまぜになりながら、いくつかのストーリーが織り交ざりながら着地するんです。ストレートに凶悪という着地に、凶悪な人格が計画的にそこに向かって、誰も許せないような突進をするという構図は100パーセントありませんから。
  ですから、ストーリーはいくつかあるという話を、私はいつもするんです。要するにそこに至るためには、明確な動機があって、計画があって、そこに行きつくということは、未熟な犯罪の場合ほとんどありえない。逡巡しながら、行きつ戻りつしながら、犯罪へ向う途中であっても、その犯罪を合理的に成立させるような動きはしていないですね。それを阻害させるような動きをしたりします。だから、目的に向ってというよりは、一緒にいる人たちに鞘当て、強気になったり虚勢を張ったりというようなことも含めながら、全体としてそこに至ってしまう不幸があるけれども、一人一人にとってみれば、そこで自分がやった役割について、自分でどうしてそうなったかきちっと言い切れないような、あるいははっきり一つの言葉で語れないようなことが存在するということなんですね。
  「主犯格とされる」とは、よく言われるんですが、これもパラドキシカルに言えば、主犯というリーダーが存在すれば、統制が取れて凶悪な犯罪が成立しない可能性も高いのです。未成年の犯罪の場合はとくに、それほど計画的、合理的に進むということはないですね。
  だから木曽川・長良川の事件でいえば、主犯とみられたKM君が、組の序列からいうと、KA君の下にいるということの矛盾の中での動きが促進されてるわけですね。要するに自分の位置をめぐって、序列の混乱がそのまま行為の混乱になっているんですね。だから、2番目の殺害で言えば、被害者はKM君の昔からの友達ですよね。むしろ自分の兄貴分のような者を殺しちゃってるわけです。シンナーを吸って、ラリってる状況で、要するに自分がバカにされないように、大坂へ行ってバン張って、俺はすごいぞと言ってるのに、昔いた奴にバカにされるのは嫌だっていうことで、もともとのきっかけはその反発を抑えつけようとしただけの話なんですね。ところが、それがお互いの鞘当ての中で収拾がつかなくなって、内心からいうと、逃がそうという気持ちが働いているわけですけれども、自分から言い出せない。きっかけが作れないから、結局、自分が譲れない。譲れない間に、もう手の届かないところへ行ってしまって、暴力がエスカレートして、もう引き返せないと。それでも完全にとどめを刺して殺すというよりは、助かってほしいなぁという気持ちもある。言葉だけで見ると、埋めるとか、流すとか、橋から落とすとか、すごい言葉が出てきますけれども、それは要するに虚勢言語であって、実態からするととことん証拠を湮滅したり、徹底的に殺してというような、いわゆる残虐性というのはないですよね。むしろ生きてくれたらいいな、と。だから一審のときには、そこだけは傷害致死に落ちたのはそういう理由だし、他の場合でも、やっぱり時系列の多少の誤差であって、完全に殺害計画を持ったりとか悪意を持って捨てにいくという形では展開していません。
  大阪事件でも、とくにKTなんかは要領よく立ち回って、自分が一番下っ端だからいうこと聞かなきゃいかん、でも、ここで手を抜いたらまた何を言われるかわからない、と。要するに、あと生きていく場所がない人たちの集まりだから、せっかく入ったヤクザの序列の中で、自分のいい位置を確保したいという思いが生じても不思議じゃない。だから役割を果たしたことにしながら適当に口実をつけて逃げるわけですよ。要するに、完全に殺すという目的から離脱して、しかし非難されると、俺も役割を果たしたという形で態度を示すわけです。だけど心理的な動きからいけば、そこから離脱したいという気持ちと、やらなきゃいかんという矛盾の中で揺り動かされているわけですね。
  今、たとえての例で言ったけれど、他の場面でもそうですよ。場面ごとに、たとえば、その後の行きつ戻りつの中で、集団の圧力が出てくる。私が使った言葉でいえば、投影的同一視、要するに自分はやりたくないけれども、やろうとしている他者に同調せざるをえない状況に直面して、そこで強気に出ざるをえない。兄貴分なのに何だって言われたり、お前がちゃんと役割果たさなきゃ、となったところで、結局、相手が憎いとか、相手をなんとかしなければならないというよりも、一緒にいる共犯者がよく知らない者同士だということも手伝い、鞘当ての方が強くて、結果的に殺害に至ってしまう。
  1988年のアベック殺人事件*も全く同じような心理機制が中心のところで働いています。アベック殺人事件の場合には、その点が裁判でかなり正当に評価されたと思うんですね。1番最初の報道だと、4,5時間メッタ打ちにして連れ去って、残虐だというけど、よく考えてみると、4,5時間メッタ打ちしたら即死してますよね。あとでわかったのは、メッタ打ちにしたのは、車をメチャクチャに壊したということですよ。ところが死体についての傷害の程度の鑑定によれば、全治2週間とか3週間で、要するに頭を外している。調べてみれば、頭を殴るなという掛け声が飛んでいることが後からわかった。しかもあの事件の場合には途中で被害者を解放していますからね。だから殺すことが目的ではない。完全に、目的的、計画的、論理的、冷静かつ執拗に、そこへ行き着いたというのを仮に凶悪とするなら、それとは全く別のところで犯罪が動いているという事実をきちっと知った上
で、それでも凶悪だって言われるなら、そういう考えもあるでしょうね。要するに死はみんな凶悪だと言ってしまえば、その通りですけれども、でも今言ったみたいに、執拗かつ残忍、冷静、沈着、計画、なんとか、そういう形容詞が並んで、残虐、凶悪というところに結びつけるのであれば、事実をそこで正確に時系列において見ていただければそうではないということ、少なくとも、そうではないという判断の人たちがずっと増えるはずですね。
  それと、今、一緒くたに話しちゃったんですけど、要するに人格性も含めて正確に見てほしいと思うんですね。行為の態様からもそうだし、どういう人格が形成されて、稀薄な人間関係しか持てない人間としてそこに存在しているという彼らのリスクについて、もっと見てほしいと思いますね。同情論じゃないんですけどね。行為の結果としては責任を負わなきゃならない中身というのはあるんでしょうけれども、そこに至った経緯については、もっともっと人間理解として正確にしてほしいし、最初に申しました凶悪な人格というのは存在しない。ある種の、きわめて発達上阻害された人格が、あるいは孤立した人格が、そこで自分自身の社会的に生きていく道からはずれて行為をせざるをえなかった不幸がいくつも出てくるということが明らかになるわけですね。それを理解した上で判断をすべきではないかというのが私の思いです。
*名古屋アベック殺人事件
 1988年2月、名古屋市内の大高緑地公園で非行少年グループが停車中のアベックを襲い、紆余曲折の末殺害した。
 89年6月、名古屋地裁は主犯格の少年Sに死刑、1人に無期、4人に懲役4年から17年の判決。96年12月名古屋高裁(松本光雄裁判長)はSの1審死刑判決を破棄、無期懲役判決を出した。少年たち間の事件における複雑な心理的プロセスと、控訴審以降、事件に向き合う彼らの内面に関しては加藤幸雄「凶悪ということ」(『年報・死刑廃止96』)を参照。

村上 木曽川・長良川事件は、今、先生がおっしゃったことが実態であり、本質だと僕は思うんです。事件というのは実際にはそういう形で、ああいうような悲惨な結果になった。しかし、今回の死刑判決は今加藤先生がご指摘された点に全然目を向けていません。実態は、未成熟な少年たちがバラバラの状態で集団を作り行動していたのに、判決では、組織化された大人の、暴力団組織の仲間たちが、ちゃんと統制された形でやったという形で判決は出ているんですね。それで、なぜこういうふうになるかというと、これは思ったより世の中の人たちが求めている兇悪犯人像に合わせているような気がしてしょうがないんですね。ですから事件が起きたときは、凶悪犯だ何だかんだと言って、そのあと、裁判で深く追求していくとその実態がわかってきて、僕なんかは自分の被告人、KAと会っていますと、自分も同じような立場に立ったら、僕もそんなに変わらないと思いますもの。でも、1審はある程度その悩みの中で判決を出していると思いましたが、控訴審になったときには、まったくそれが配慮されていない。むしろ世の中の人がある程度考えているような凶悪犯人像に合わせた形で判決を書いている。木曽川・長良川事件の本質というのはそこにあると思います。
平川 「凶悪」という判決になるのには、裁判所と、マスメディアと、それから世論というか一般の人たちの感覚と、この3つがあるように思います。そして、中心にいるのは、マスメディアだと思います。
 事件の本質は、いま加藤先生がおっしゃったようなところにある。ところが、そういうことがメディアには全然出てこない。私は、マスメディアは事実は伝えているけれども真実は伝えていないということを、よく言います。マスメディアは、断片的な事実は伝えているけれども、事柄の本質、本当の意味での真実は伝えていない。それは、事件報道だけではなくて、ありとあらゆるところにそれがある。イラク報道でもそうだと思います。
 事件報道で言えば、初期報道は、初動捜査の段階で警察から洩れてくる断片的な事実をつなぎあわせてわかりやすいストーリーを作って、それを流していくという構造になっている。そして警察から流れてくる断片的な事実をつなげて出来上がってくるストーリーと言うものは、実は、警察が作っているストーリーであるわけです。だから、警察が作っているストーリーに乗っかってそれを流しているというのが、今のマスメディアの事件報道、犯罪報道だと思うのです。
 そのようなストーリーは、非常に単純化されたものになります。また、世間の人たちは、加害者と自己を同一化するのではなくて、被害者と自分を同一化する傾向があります。そうすると、被害者寄りにストーリーを構成していくほうが、読者・視聴者の理解を得やすく、メディアに対する共感も得やすい。それで、結局、そういう形で報道がどんどん流れていってしまう。それが一種の世論形成作用を持ち、裁判所にも1つの世論のプレッシャーという感じで受け止められる。それが今おっしゃったような形で裁判に影響していくということが、今起こっていることではないかと思います。
 日本で犯罪被害者問題がクローズアップされたとき、日本の被害者対応は欧米から20年遅れていると言われ、2000年にいわゆる犯罪被害者保護関連二法が作られました。犯罪被害者の意見陳述も、このとき導入されたものです。日本で犯罪被害者への対応が遅れた要因には、被害者の人権に対する意識が低かったということが、我々研究者も含めてあったとは思います。しかし、我々研究者の中には「被害者の人権」を強調することは、日本の場合は被疑者・被告人の人権の切り下げになるのではないかという危惧感がかなりあって、それで避けていた部分もあったと思います。被害者の意見陳述なんか日本でやって大丈夫なの、おかしな方向に行くんじゃない
かという危惧感はあった。犯罪被害者保護関連二法の立法の過程でも、被害者の意見陳述が事実認定をゆがめることが危惧されて、刑訴法292条の2に、被害者の意見陳述は量刑の1資料にはできるけれども事実認定の証拠にはできないという趣旨の規定が置かれました。しかし、これで被害者の陳述が事実認定や量刑に不当な影響を及ぼすことを現実に防止できるかといえば、そういうものではありません。
 しかし、これも、世論の圧力もあり、外国でやっているから日本でもということもあって、導入されたわけです。そして、私などは、危惧されていた部分がやはり徐々に現れてきているように感じるのです。
 被疑者・被告人の人権保障が確立しているところで被害者保護を図るのは、それなりに一つの方向だろうと思います。しかし、今の日本のように被疑者・被告人の人権が確立していないところで犯罪被害者の人権ということを言い出すと、どうしても問題が起こってくるという気がします。それが、今、徐々に起こりつつあるという感じがしています。
村上 援護の不十分さと被害者へ向ける感情というのが軌を一にしちゃってるわけでしょう。
加藤 本来は被害者自体に適切な金銭的、生活的、心理的なサポートが必要なわけですよね。そこが十分に果たされるという条件の中で、今言われた加害者の人権とのバランスがとれるわけだけれども、それが非常におろそかな状況の中では、不満や怒りの感情は加害者に向うしかないし、要するに自分の中にある、言い方は悪いかもしれないけれど邪悪な感情というか、もう許せない感情が逆の凶悪さを生み出すような形で、まさに復讐の論理がそこで復活している印象を受けます。だから近代法以前のところへ感情のレベルだけでは戻っている印象を受けます。それから先ほど言われたマスコミ、裁判所の問題について私がかねがね思っているのは、マスコミ報道で言えば、センセーションというのは被害者寄りの報道なんですね。それが何日も続いて、それこそ三面記事と言われた小さな新聞紙面のときだったら、ベタ記事で出るようなものが連日のごとく両開きで、しかも週刊誌を含めると長期間にわたって繰り返し繰り返し、そのセンセーションの部分だけがやられるわけでしょう。真相解明で言われる、ほんとに事実をきちっと確定していくプロセスというのは、小さく、少しシリーズでとらえて良心的に出すことはあるけれども、きわめて限られたもので、その頃にはもうほとんど関心がないところで終わっていく。大きな事件でも、あれは何だったかなというところで、判決だけ。それがマスコミの実情ですよね。
 それから裁判所について言えば、量刑についてはすごく関心が高いけれども、真相解明についてセンスのいい裁判官がどうして育っていないんだろうと思います。もともと裁判は真相解明が命のはずですよね。何でこういうことが起こったかということをきちっと世に知らしめることに裁判体の仕事があるはずなのに、なんで裁判官が凶悪だっていう合唱団の指揮者になるのか。そういう仕事だったのかなぁと錯覚を起こしちゃうような、その恐ろしさですよね。よくあれだけ言葉を並べて凶悪だということの作文ができるなぁというぐらいの恐ろしさです。凶悪な人格があるとしたら、その文章を書くほうが凶悪じゃないかと思うぐらいの気持ちになっちゃいましてね(笑)。ちょっと言い過ぎているかもしれないけれども。もう少し精査して、人間というのは行きつ戻りつして、自分だってここに置かれたらどうなるんだっていう共感性だとか、その場をきちっと見なきゃ人権感覚なんて生まれないですよ。それのないところで、判決だけは、量刑に照らし合わせて、被害者が3人か4人かなんていう相場じゃないですよ。ほんとにその人たちがどうやって生きてきたのか、その軌跡、どういう不条理の中でそこに至ってしまったのかをきちっと掲示して、それでもなお殺しますかっていうことですよ。ほんとにそれでいいですかっていう問いを発する役割を、なぜ裁判体は放棄するんですかね。そこが不思議でならないですね。せっかく長い時間をかけて、そりゃ完璧ではないかもしれないけれども、ほんとにていねいにていねいに主観性を含めたもう一つのストーリーを掲示しているという点について、わずか2,3行の情状で終わらせてほしくないなって思います。アベック殺人のことでいえば、やっぱり共謀の場所だって変化したわけですよ。そういう丁寧さを見ていただいて、世に中身を問うてほしいですね。
 それから判決文はやっぱり教訓的であってほしいと思いますね。裁判書きをきちっと読みたいと言わしめるものを出していただく役割を果たせる人たちが裁判官になってるんじゃないですか、と言うと皮肉に聞こえますけれども。そんな感じがいたしますね。
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「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【4】裁判員制度と死刑事件について
「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【3】裁判の重罰傾向について
「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【2】 光市事件最高裁判決の踏み出したもの
「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【1】3元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決『2006 年報・死刑廃止』
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