「玉屋」、「鍵屋」ともに昔の花火屋さんの名前です。 慶長18年(1613年)徳川家康が日本で初めて花火を観賞しました。 日本では種子島の鉄砲に使われた火薬が花火へと発展しました。 家康が見たのは竹筒に火薬を詰めて火を噴くだけのものでしたが、三河地方に残る「手筒花火」はこの名残だと言われています。 その後花火は急速に発展し、江戸で開花しました。
享保18年(1733年)両国の大川(現在の隅田川)にて川開き花火大会(隅田川花火大会の原型)が開催されました。 そこで活躍したのが日本橋横山町の花火師、鍵屋六代目弥兵衛です。 もともと「鍵屋」は葦(アシ)の管に火薬を詰めて星が飛び出す花火を開発し、商才もあって花火市場をほぼ独占していました。 しかし、花火が火事の原因になるため町中では花火禁止令が出され、隅田川の花火だけが許されたそうです。 当時は納涼船を出して「鍵屋」に花火を上げさせるのが、豪商たちの贅沢の象徴だったそうです。
文化5年(1808年)「鍵屋」番頭の静七が暖簾分けをし、両国吉川町で玉屋市兵衛を名乗り、やがて川の上流を「玉屋」、下流を「鍵屋」が担当し、二大花火師の競演になったそうです。 これを応援するための掛け声が「たまや~」「かぎや~」だったのです。
ちなみに、天保14年(1843年)「玉屋」の出火で大火事となり玉屋市兵衛は江戸から追放され、「玉屋」は廃業となっています。 花火をやる時は火の始末をしっかりしましょうね!