街道を歩く

今まで歩いた街道、町並み、これから歩く街道、町並みを散文的に紹介

中津街道(余録)

2008-10-25 21:33:01 | 中津街道

 今日は母を汐湯に連れて行った。中津街道を下る途中、母に直接縁のある場所に寄った。ここは椎田の海岸にある綱敷天満宮である。天満宮と言うからには当然菅原道真を祀ってある。菅原道真が対岸の山口県防府から海を渡り、上陸したのがこの地点なのである。そのとき地元の人々が安んでもらおうと舟の艫綱をとぐろに巻いて敷物にし、その上に座していただいたと言うところから綱敷という名ががついたわけだが、そのときに菅公から名前をいただいたのが母の祖先である。「家令」という。意味は家の番頭という意味らしい。この名は小倉城下の地図(小倉城内展示)の中にも記載されている。
 宮参りであろう一組の家族が参宮していた。邪魔しないように遠目から様子を見ていた。境内には牛が六頭いた。その内一頭は母で、この一頭だけはうろうろしている。
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中津街道

2008-10-25 17:31:21 | 中津街道

 皆さんご存知の福沢諭吉旧居である。ここは諭吉の母お順の生家である。旧居を中心にして公園化されている。福沢家は十三石二人扶持の下級武士で、城から少し離れた場所にある。当然城に近い場所に住めるのは上級の武士である。彼からすればなんと言っても時代が良かったという事である。まだ江戸時代が続くのであれば台頭することもなく中津という狭い地で埋没したであろう。なにせ末っ子であるからどうしようもなかったであろう。時代が彼を活かしたのである。
 こじんまりとした家ではあるが清々しさを感じることが出来る。
旧居を後にして中津駅へと向う。途中街中は区画整理のためか、或いは道路整備のためか、あちこち旧存していた家々がなくなり面影を薄くしていた。これも時代の流れであろう。
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中津街道

2008-10-24 10:41:58 | 中津街道

 殆どの皆さんはご存知であろう。合元寺の「赤壁」である。これを「レッドクリフ」「せきへき」と言ってはならん。「あかべい」である。中国ではその断崖が赤い。ここは壁が赤い。その赤は血の色である。
 天正十七年(1589年)四月黒田孝高(黒田如水)が宇都宮鎮房を中津城で騙し討ちにした。そのときの友侍らが中津城を脱出し、この寺で奮戦するも最期をとげてしまった。それ以来白壁を塗り替えても血痕が絶えないので遂には赤壁にしたという、有名な寺である。

 妻はにこやかな顔をして立っている(そのとき前もって説明はしたのだが) もう少し当時を思ってそれなりの顔をしてくれよと編集時に思ってしまった。後の祭りである。もう少し中津に滞在である。
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中津城の思い出

2008-10-23 09:04:27 | 自転車

 中津には思い出がある。小学校の修学旅行で別府一泊、その帰路に福沢諭吉宅に寄った。そのころなどはなにがなんだか判るわけもない。中津がどの付近にあるのかも知らなかった。ましてや興味など沸くわけもない。
 それがである。高校受験に合格し自転車を手に入れた。そう、十六の春である。昭和44年4月20日(西暦1969)。今から39年前自転車で中津城まで走ったのである。これがその時の記録である。ここから私の自転車旅行好きが芽生えたと言っていい。
 国道10号を往復するといっただけだ。道は現在も殆ど変ってはいない。
 そのときの光景など殆どと言っていいほど憶えてはおらんが、朝日に向って走っているのであまりにも眩しい。とそのなかに9600型(蒸気機関車)が逆光の中を貨物を牽引し、煙を吐いて軽やかに走る姿を見た。まさに目に焼き付くとはこのことであろう。
 中津城にはあまりにも早く着きすぎた。母が弁当を持たせてくれたので目の前の公園で食べ、登城してからすぐ帰路に着いた。(入場料は50円)
 街中をポタリングしてみようなどという気が起こらなかったのは今思えば至極残念である。
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中津街道

2008-10-23 08:21:05 | 中津街道

 石垣を曲がった途端、マドンナ・・・!しばらく時間が止まってしまった。
若い頃は私のマドンナであったろうが、今はどうだ。堂々たるものだ。・・・・もう何も言うまい。
 背景の木造三階建てが目を惹く。ただ惜しむらくは電信柱で、これはいただけない。
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中津街道

2008-10-23 08:11:59 | 中津街道

 汐湯の脱衣場から左手の階段をトントンと上ってゆくと木造のテラスが仕組まれている。この景観はそのテラスからのもので中津城の外堀にはみ出している。気候はいいものの流石に川から吹き上げてくる風は冷たい。それでも海水湯に浸かったからであろうか体が急激に冷めるということはない。ご覧のように左手にはマンションが建っている。それが写真に写らないように少し角度を変えて写したのである。生い茂る木々がそれらを隠してくれる。好都合にその端にきわどく立っている。

 両脇にある石垣は門を成した一部である。この画面の中央に石碑のようなものが建ち字が彫られている。「津中」「湯水海」とあり、この石碑からしてこの汐湯は長年の歴史がありそうだ。私はこの様なアングルが好きで、石垣の向うから日傘を差した和服の女性でも(かの「坊ちゃん」にでてくるマドンナのような)現れるのではないかと期待するのである。
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中津街道(付録)

2008-10-22 10:21:19 | 中津街道

 中津街道湯川にある水神社のお祭りである。水神社は幼稚園を経営している。まあ今では大概の神社、寺は幼稚園を経営しているようだがここもご多分に漏れず世間一般的である。秋の祭りまでも幼稚園の行事として組み込んでいるのである。祭りであるから楽しいほうがよかろう。素直に受け止めよう。
 この神社も和気公と関わりがある。
 ここが由来の石碑に書かれたところ、一生水の湧き出るところである。滾々とまではいかないまでも清らかな湧き水である。少し青みがかっているのがわかる。池と言ってしまえばそれまでだが、水溜りでもないのであるからやはり池と言うべきか。左下に写り込んでいるのは心霊写真ではなく私の妻である。シャッター速度が遅いためにこうなってしまった。念のために付け加えておく。
 田舎の地方の祭りの姿を垣間見ることが出来るというものだ。出店などはないが、ここにその様なものがあればあフーテンの寅さんを思い出す。惜しいかな。
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中津街道

2008-10-22 09:04:57 | 中津街道

 汐湯である。暖簾はない。いい雰囲気を醸し出している。面白いことに男湯の入口は左にある。大概の銭湯の男湯は左にあるが、何かそうでなければならないという理由があるのだろうか。朝10時から湯を楽しむことができる。日本人はどうやら小原庄助さん(漢字が正しいかどうかは判らぬが)が好きなのだろう。このような身分になってみたいものだ。
 この日は13時頃の入浴となったが誰もおらん。急いで浴槽の写真を撮った。右に見えるのが海水で、大きいほうが水である。水の方は熱い。
 先に海水に入ってみた。体が何か心地好いものに包まれたような感じがしたし、何か懐かしさを感じたのである。その懐かしさとはこういうことではないかと、ふと頭を駆け巡ったのである。そう、人間は母親の胎内に十月十日いる。その潜在意識かもしれん。優しさまで感じたのである。
 風呂の入り方は海水、水と交互に三回入るとのことだ。それが基本的なのであって強制ではない。自由に入ればよかろう。温泉は数々あるが、この海水湯はこの上なく気持ちの良いものだった。又来ようと思ったくらいだ。(写真:脱衣場の我輩。少し色っぽいかもしれんが掲載するのは別に構わんだろう)
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中津街道(付録)

2008-10-21 10:59:30 | 中津街道

 中津街道である。地名は湯川という。湯川と言えば和気清麿と猪の話である。ところが、由来の石碑を見る限りでは白鹿は出てくるが猪は出てこぬ。(「しし」は鹿とも猪とも両方を指す場合がある。)
 由来にある足立山に妙見神社があるが、ご存知のように和気公は猪に乗っておる。また阿吽で迎えるのも猪である。ここに書かれている白鹿は白い猪だろう。と思いたい。

 他愛のないことを言っている場合ではない。和気公が実は日本の歴史を曲げなかった人物だったということを忘れてはならない。足が立ったという伝説は歴史を曲げなかったからの由縁にある。
 女帝、道鏡の力に屈服して道鏡の思うがままを神勅と言ってしまえば歴史は変っていたかもしれん。ところが、公は邪心を持たぬ清真な心根の持ち主だったろうと推測されるのである。それ故に足の筋を切られる羽目になったわけだ。命を落とさずに済んだことも歴史である。この様な人物とこの界隈が縁があったというのは楽しく思える。
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中津街道

2008-10-21 08:52:54 | 中津街道

 中津城の西口門を左に見つつ鉤手を抜ける。この道の左右には近代的なマンションが立ち並んでいるが、突き当たる所には時が止まったままの汐湯がある。
 その横の建物も汐湯と言っているのだが割烹である。よく見ると中津城の門の一部の石垣を利用して割烹の建物を載せている、そして主要な建物は木造3階建てである。心の落ち着く光景を目の当たりにし、もう少し写真に収め愈々入浴となる。
 たかが銭湯に行くくらいなのに何故か緊張している自分が可笑しく思えた。
「よし、入るか」
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