鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

認知症に対しての施術〜全身の歪に着目して〜

2018-04-25 07:49:16 | 認知症
認知症に対しての施術おこなった。東洋医学の効用を実感する。 認知症に対しての施術、これまでは脳神経の衰えの問題として、その回復、(回復は無理としてもこれ以上)衰えさせないように、という方針でおこなって来ていた。 そのことに一定の効果を感じているものの、劇的にとはいかず、少しずつ衰えていくのは仕方ないこと、との思いへとなっていっていた。 しかしながら、施術治療の行き詰まり(?)を感じて、改めて . . . 本文を読む

「東洋医学の学びの総括」を書くことでの気づき〜そのことで自身のアタマの限界の実態を知る〜

2018-04-22 20:17:06 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
 「東洋医学の学びの総括」を書くことで、その過程で自身のアタマの働きのレベルの低さを、その実態を痛感させられている。  現在、「東洋医学の学びの困難性について(すなわち、東洋医学はなぜ難しいのか)=東洋医学如何に学ぶべきか(すなわち、鍼灸如何に学ぶべきか)」を書いているのであるが、その中での自身のアタマの働きの不足を日々痛感させられている。  具体的には、何か漠然とは書きたいもの、書かねばならな . . . 本文を読む

地面を耕す〜目的意識的実践は対象の構造に分け入らせる〜

2018-04-20 08:57:02 | 運動・鍛錬・リハビリ
地面を耕す鍛練を行った。体幹力の不足を痛感された。 昨日、久しぶりに地面を耕す鍛練を行った。久しぶりであるだけに、楽しく、いくらでも出来る、という感覚があったのだが、初回なので軽く20分間でストップした。 案の定、今朝は右腰の古傷の部分に軽い張りがあり、であったので初回は無理せず、が正解だったのだと。 今回の耕す鍛練を始めた理由は、春からの護身レベルの空手の学びに耐える体力を、という目的で骨 . . . 本文を読む

踵の痛みの治療〜正常像から見ることの意義〜

2018-04-19 08:54:29 | 施術事例
歩行時の踵の痛みを訴える患者に対しての施術を行った。正常像から見ることの大事性実感した。 昨夜の事例[左踵の痛みの訴え。右側に腰椎ヘルニアの既往があり、左側への重心の偏りから、と思われる左側の膝、首、肩の痛みを訴え通院している患者] 伏臥位での視診で、左足首の回外があった。 臀部から下腿にかけての外側、特に臀部と下腿への施術を行い、末梢牽引での矯正を行うが、左足首の痛みの訴え。 足首の緊張 . . . 本文を読む

東洋医学の学びの困難性について〜ブログ今後の予定〜

2018-04-18 10:03:12 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
「東洋医学の学びの総括」ということで数回書いたのであるが、それを書く中で漸くに何を書くべきか、が明確になって来たと思える。 当初は、鍼灸学校での三年間の学び+αを総括して書いていこうとの構想であったのだが、諸々の事情から充分に準備することが出来ず、にもかかわらず今書かねば書かないままに終わってしまう、との思いから覚え書レベルででも、と書き始めることとなった。 さて、「東洋医学の学びの総括」を覚 . . . 本文を読む

東洋医学の学びの総括(3−2)〜東洋医学、鍼灸の学びにとっての、認識論と弁証法の学びの必要性について〜

2018-04-15 22:01:44 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
 (前回からの続き)  次に、弁証法について。弁証法とは「世界の運動の一般性についての学問(科学)」(あるいは「世界の一般的な運動についての学問(科学)」)である。これについても南郷継正先生の著作に学んでいたでければと思うが、簡単に東洋医学,鍼灸とのかかわりでその必要性を説いておきたい。  東洋医学,鍼灸を学ぶのに何故に<弁証法>の学びを!なのかといえば、端的には,弁証法が、世界の運動の一般性、 . . . 本文を読む

東洋医学の学びの総括(3−1)〜東洋医学、鍼灸の学びにとっての、認識論と弁証法の学びの必要性について〜

2018-04-15 20:12:04 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
 「陰陽論・五行論」について説いたので、次は、「気・血・津液」、「経絡・経穴」、「蔵象」へと筆をすすめる予定であった(「東洋医学の学びの総括」の構想としては、一般論(本質論)-構造論-現象論の順でとの思いがあった)のだが、東洋医学、鍼灸に関わる学びの総括をしようと、そこに関わる諸々の像を想起していくと、東洋医学、鍼灸の世界に認識論と弁証法が皆無であるということが痛感され、その現状に鑑みて、自身にと . . . 本文を読む

『美学講義』(ヘーゲル)を読む〜一般論とそれに見合う事実を持つことの大事性〜

2018-04-13 13:15:03 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
『G.W.F.ヘーゲル 美学講義』(寄川条路 監訳 法政大学出版局......以降、『美学講義』と略して表記する)を読み始めた。一般論(とそれに見合う事実)を持っての学びの大事性、必須性、痛感する。 今春より、数年ぶりに絵を描くことを始める予定(昨日、近隣のクロッキー会に参加した)であった、のでこの機会にヘーゲルの「美学」に再挑戦することにした。 ヘーゲルの「美学」は、岩波のヘーゲル全集では、 . . . 本文を読む

東洋医学の学びの総括(2)〜東洋医学は何のために誕生させられたのか〜

2018-04-11 20:16:04 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
陰陽論・五行論について考えていくと、そもそも東洋医学は何のために誕生させられたのか?ということをおさえておく必要性を感じる、とともに現在の鍼灸の世界には、そこを論じる実力が無い、端的には認識論が無いということに鑑みて、実力不足ながら論じておきたい。 そもそも東洋医学は何のために誕生させられたのか?と考えるならば、一般的には、病気を治すために、もっといえば、経験的な東洋医術の限界を超えて、それの適 . . . 本文を読む

東洋医学の学びの総括(1-補2)〜五行論とは何か〜

2018-04-10 23:29:39 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
前回に引き続き「陰陽論・五行論」についての補足。 さて、五行論とは何か、と考えるとそれは陰陽論が世界(の運動)の根源の問題=本質についての論であったのに対して、世界(の運動)の構造についての論である、と思える。 それだけに、本来、陰陽論と五行論とは、陰陽・五行論であるべき、と思えるのだが、鍼灸学校では、陰陽論と五行論とは別のものとして平面的に論理のレベルを無視して並べて教えられる、かつ理解され . . . 本文を読む

東洋医学の学びの総括(1-補)〜陰陽論とは何か〜

2018-04-09 19:40:41 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
漸くに「東洋医学の学びの総括」も本論にあたる部分を書き始められた、とホッと胸を撫で下ろしているのであるが、自身の書いたものを読み返して見ると、あれもこれも書き足りない、との思いとなっている、ので出来る限り補って、と思う。 「陰陽論・五行論」について書いたが、そもそも「陰陽論」とは何か、「五行論」とは何か、その両者はどういう関係があるのか、無いのか、また、古代中国において東洋医学が「陰陽論・五行論 . . . 本文を読む

東洋医学の学びの総括(1)〜陰陽論・五行論について〜

2018-04-08 19:25:31 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
 「陰陽論・五行論」について、それは東洋医学にとっての弁証法ではないのか、哲学の誕生に弁証法が必須であったが如くに(ここに興味のあるかたは南郷先生の著作、『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第二卷』あるいは『哲学・論理学原論〔新世紀編〕』(ともに現代社刊)をお読みいただければと思う)、「陰陽論・五行論」の誕生・存在は東洋医学の誕生にとって必須のことであったのではないのか、との思いがある。  そう . . . 本文を読む

はり師きゅう師免許申請終了〜鍼灸免許取得の一区切り〜

2018-04-05 22:22:32 | 日記
はり師きゅう師免許申請が漸く終了した。 診断書をとって、収入印紙を購入して、申請手数料を振り込んで、と結構面倒な手続きであったが、漸くにはり師きゅう師免許申請書類を送付出来た。 やっと、全てが終わったとの実感が湧いて来た。と同時にどっと疲れが出て来ている。 明日からは気分一新して!と思う。 . . . 本文を読む

整体について〜身体の歪みを整える必要性〜

2018-04-05 07:55:27 | 運動・鍛錬・リハビリ
整体行なった。その効果に、そのことの必要性実感する。 今朝、整体(自身での)を行なった。具体的には、寝た状態で、身体を捻ったり、捻った状態で四肢、首を曲げたり伸ばしたり、を自身の身体の感覚(痛み等)を頼りに、約30分間行なった。 そのことを行う中で、次第次第に頭痛の直接の原因と思える首の強張りが取れれ行って、30分間が終わった時には、首の強張りはすっかり取れて、であった。 この自身で行う整体 . . . 本文を読む

満開の土手の桜並木〜桜も色々、人生も色々〜

2018-04-04 21:39:42 | 日記
土手の桜並木が満開となった。どこまでも続く桜の見事な美しさに、巨木でなくとも数があればそれはそれで見事なものになりえるのだ、と感動させられ、人生もまた、と思えた。 . . . 本文を読む