鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

「書くことは考えることである」とは〜(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動として全てを書く=考えること〜

2020-08-16 15:21:08 | 絶対精神の自己運動
 昨日の終戦記念日に思うこと。戦争・終戦という社会の激変レベルの変化があったから、その時代を生きた先輩、先生方は無いのかと。これはヘーゲルにおいてもそうであるし、そもそもの古代ギリシャという弁証法の誕生の時代もそうであったのだと(個体発生は系統発生を繰り返す)。より構造的にいえば、社会の激変ということの羽根井としてのアタマの中の激変=運動という像があってこその、納得、実感レベルでの弁証法の学び、修得が可能となっていったのではと思える。ここは別言すれば、形式、知識としての弁証法をいくら熱心に学んだところで、そもそものアタマの中の像が弁証法的・運動的でなければ、運動する像を生み出すような脳(頭脳?)の働きがなければ、弁証法を実感レベルでわかりようが無いのだということである。そういう意味で、コロナ禍で激変レベルで社会が変わっていってしまっている現在の厳しい状況にも僅かながらでもプラスの面もあるのでは、と。

 さて、「書くことは考えることである。」ということ。自身の実力、論理的なアタマの働きを向上させるに必須のことであるとの思いから、それなりの熱心さで何年にもわたって実践してきたことである。にも関わらず、自身のアタマの働きは、劇的に、とはなかなかに行かない現実を持ち続けている。これは一方では、自身の脳そのものの実力が衰えていくのが当たり前の年代になってしまっているがゆえ、とも思える。それゆえに、脳そのものの実力を落とさぬよう、できれば僅かづつでも向上していけるように、との思いで、実体の鍛錬にも取り組んでいるのであるが......。それはさておき、書くことが考えることに、まして考える実力を培うことになかなかに繋がって行かないのには、実体としての脳の実力の問題とともに、その書く形式の問題の二重性があると思える。(ここは以前にも書いたことであるが、お盆休みを区切りとして今年後半へ向けて再確認しておきたいものとの思いがある。)

 「書くことは考えることである。」ということは、端的には、(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動の形式で、自身の「思い」を絶対精神として書く、運動させてやることであり、そのことが自身のアタマの働きの実力を培ってくれるのだ、ということである。

 これは例えば、「猿類体としての運動が、思弁=形而上学へとも繋がって発展していく人間の認識の実力を培ってくれる大元である。」ということを、知識として知ったとして、これは単なる知識でしかなく、それだけでは何の役にも立たない(知識としての自慢のタネくらいにはなるかも知れないが......)。肝心なことは、その一般論の中身を知っていくこと、これは理論的にもそうであるし実践的にもである。より具体的には、猿類体としての運動を実際に自身の身体で現実のものとして実体化してみて、その実体の変化運動をしっかりと見て、その中身が視えるようになっていくことではじめて、「四足の哺乳類が登れない木に必死にしがみついての登り降りを繰り返すことで木に登れるようになっていくということが、そのしがみつく、力を込め続けるという運動が、像を止める=「思う」の実力を可能とする脳の実力を培ってくれたのだ、それが猿類体の運動が思弁=形而上学へと繋がっていく認識の実力の大元を培ってくれる、繋がっていくということなのか!?」と僅かながらでも最初の一般論としての思いを深めて行ける道なのだと。この様なアタマの働き、働かせ方(別言すればここは、一般論→具体論・現象論→構造論・本質論との論の展開の仕方)が「書くことは考えることである。」ということの中身の一つなのでは無いのか、と思える。

 これは即ち、(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動のミニマム形態での繰り返しである。そういう意味では、「書くことは考えることである。」というのは、「(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動として、書くことは考えることである。」ということなのだと思える。

 コロナ禍で明日の行方も知れぬ現在の状況であるが、可能な限り最後まで全力を尽くして、と思う。


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