「東洋医学の学びの総括」ということで数回書いたのであるが、それを書く中で漸くに何を書くべきか、が明確になって来たと思える。
当初は、鍼灸学校での三年間の学び+αを総括して書いていこうとの構想であったのだが、諸々の事情から充分に準備することが出来ず、にもかかわらず今書かねば書かないままに終わってしまう、との思いから覚え書レベルででも、と書き始めることとなった。
さて、「東洋医学の学びの総括」を覚え書レベルでと考えると、教科書や東洋医学の解説書でそれなりに説かれてあることはカットして、そこには(ほとんど)説かれていない、あるいは(本当には)解かれていない部分を、それに対しての自身の答を説いて行くべき、との思いとなって「東洋医学の学びの総括」を書き始めた。
それが「陰陽論・五行論」であり、「認識論・弁証法」であったのだが、それらを書いていく中で気づいたことが、「東洋医学の学びの困難さの原因は何なのか?」という問題である。
「だから東洋医学は難しいのか」「だからみんなその学びに迷ってしまうのか」ということが、それなりに、アバウトにではあるが、イメージ出来てきたと思える。
それは端的には、観念論的な理論である東洋医学を唯物論的に学ぶ難しさなのだが、そのことは当初に自身が思っていたほど単純なことでは無く、であった。
何が想定外に難しいのかといえば、東洋医学というものはその原点においても、歴史的にも唯物論的と観念論的が混在しての観念論的な理論であるから、その観念論的な理論を唯物論的にとなると唯物論的と観念論的とをしっかりと分けきって、の作業、実力が必要となる、のみならず、その作業を行う我々の側も、唯物論的と観念論的が混在して、という形で育って来ているだけに、何が何だかんだ訳がわからない、ということになっていってしまう、という難しさがある、ということに気付かされた。
そこを説く(解く)ことが、自身の「東洋医学の学びの総括」になっていくのだ、と思える。
当初は、鍼灸学校での三年間の学び+αを総括して書いていこうとの構想であったのだが、諸々の事情から充分に準備することが出来ず、にもかかわらず今書かねば書かないままに終わってしまう、との思いから覚え書レベルででも、と書き始めることとなった。
さて、「東洋医学の学びの総括」を覚え書レベルでと考えると、教科書や東洋医学の解説書でそれなりに説かれてあることはカットして、そこには(ほとんど)説かれていない、あるいは(本当には)解かれていない部分を、それに対しての自身の答を説いて行くべき、との思いとなって「東洋医学の学びの総括」を書き始めた。
それが「陰陽論・五行論」であり、「認識論・弁証法」であったのだが、それらを書いていく中で気づいたことが、「東洋医学の学びの困難さの原因は何なのか?」という問題である。
「だから東洋医学は難しいのか」「だからみんなその学びに迷ってしまうのか」ということが、それなりに、アバウトにではあるが、イメージ出来てきたと思える。
それは端的には、観念論的な理論である東洋医学を唯物論的に学ぶ難しさなのだが、そのことは当初に自身が思っていたほど単純なことでは無く、であった。
何が想定外に難しいのかといえば、東洋医学というものはその原点においても、歴史的にも唯物論的と観念論的が混在しての観念論的な理論であるから、その観念論的な理論を唯物論的にとなると唯物論的と観念論的とをしっかりと分けきって、の作業、実力が必要となる、のみならず、その作業を行う我々の側も、唯物論的と観念論的が混在して、という形で育って来ているだけに、何が何だかんだ訳がわからない、ということになっていってしまう、という難しさがある、ということに気付かされた。
そこを説く(解く)ことが、自身の「東洋医学の学びの総括」になっていくのだ、と思える。