『「生命の歴史」誕生の論理学ーダーウィン・オパーリン・ヘッケルの悲劇とは何か(第一巻)』(浅野昌充 悠季真理 著)読んだ。自身の実力の浅さ痛感させられる。
『「生命の歴史」誕生の論理学(第一巻)』では、「生命の歴史」の背後にあるものが説かれている。合わせて、南郷先生の著作の背後にあるものをも説いていただいている。
生命の歴史についても、南郷先生の著作についても、言葉の表面だけの理解でその背後に . . . 本文を読む
滝村隆一先生が逝去された。と知った。
高校生時代に「革命とコンミューン」(イザラ書房)を読んで、世の中にはこんなにもアタマの良い人がいるのだと、今から思うと実際には訳も分からないのに、ただただ憧れ仰ぎ見た方であった。
心からの御冥福をお祈りする。
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『武道哲学講義(第三巻)』の「まえがきに代えて」で、学習と修学の区別と連関を説いていただいている。
これは、自身の弁証法の学びとして捉え返すならば、「対立物の統一」「量質転化」「対立物の相互浸透」「否定の否定」等等、「弁証法はどういう科学か」(三浦つとむ)に説かれていることを学び(=学習)、その学んだことを駆使して鍼灸に関わるあらゆる問題を、体系的な著作が可能となっていくまで、解ききること(=修 . . . 本文を読む
『武道哲学講義(第三巻)』が発刊され手元に届いた。
本日は、予定では鍼灸学校の前期末試験の準備をするつもりであったのだが、「まえがき」だけ読んでのつもりが全部を読み通してしまった。
ざっと読んでの感想は、毎回同じことになるので詳しくは省略するが、今回は、内容の毎回毎回のレベルアップによるものか、自身の年齢の故か、果たして南郷先生の説かれ(解かれ)ることが分かる日がくるのだろうか!?との思い強く . . . 本文を読む
大東亜戦争末期の食の意義について。
先日、新聞の記事で大東亜戦争末期の食糧難の時代の食のありかたが紹介されていた。戦争のせいで?白米や白砂糖というものがほとんど手に入らなくなった結果としての、「わずかな白米と野草や芋や南瓜の茎や葉、大豆カスや小麦カスを水で煮て味噌や醤油で味付けしたもの」や「ごぼうやタニシの入った炊き込み御飯」「塩っぱいおはぎ」等等の当時の食について書かれていた。
これらは、食 . . . 本文を読む
卒業研究について。
自身の通う鍼灸学校には卒業研究という科目がある。当初は自身の東洋医学、鍼灸に関わる認識は理解される筈も無いとの思いから、適用にお茶を濁しておけば良いと考えていたのであるが、自身のイメージする卒業研究が認められるのであれば、鍼灸学校入学以来の東洋医学、鍼灸に関わる学びの総決算の絶好の機会として捉えて取り組みたい、と思う様になって来た。
さて、自身のイメージする卒業研究とは、東 . . . 本文を読む
ssp療法について。
自身の勤めるクリニックでは電気療法の一つとしてssp療法が行われている。ssp療法は電気鍼療法と言っても良いものであり、上手く使えば通常の電気療法よりも高い効果が得られる。と就職当初に教わっていたのだが、当時は経絡経穴についての知識すらがほとんど無かったので、コリ痛みの訴えのある部位に単純に付けてそれで良しとしていた。
一方で、付ける位置によっての効果の違いがあると思われ . . . 本文を読む
梅雨明け以降、夏らしい暑い日が続いている。おかげで河原での鍛練を連日行えている。その意義について。
夏の河原での鍛練、河原を裸足で駆け回ったり、立木を掌、手刀、正拳、小手で叩いたり、木によじ登りぶら下がったり、ということは、自身にとっては二重の意義がある。と捉えている。
端的には、まともに手技療法術(鍼灸術を含んで)を実践し上達していけるための実体を(媒介的には認識をも)創るため、と自身の実体 . . . 本文を読む
西洋医学的?鍼灸治療について知る機会があった。本当の東洋医学の学びの必要性痛感させられた。
偶然の機会から西洋医学的?鍼灸治療の事実を知ることとなった。東洋医学というものが論理的に説かれることの無い現状から、過去の遺物であり迷信の類としか思えない東洋医学を捨てて西洋医学的な鍼灸を目指す人々の心情は分からないでは無いが、その実際はあまりにも無残なもの、としか思えない。
端的には、過去の悪しき西洋 . . . 本文を読む
海での運動行った。改めて、体力の低下実感した。
昨日、今年二回目の海での運動行った。梅雨も明け、気温も高過ぎず低過ぎずのちょうど良い運動日和であったが、体調と相談しながら、解していくことで終わってしまった。鍼灸学校入学前と比べれば大幅に、昨年と比べてもかなりの体力のレベルダウン感じる。
理由としては、年齢と学校のスケジュールがいっぱいいっぱいで連日の睡眠不足が続いていることが考えられる。しかし . . . 本文を読む
自身の東洋医学的診断の授業の体験による思いと「学問と宗教の一般的歴史性」をからめて考えることで、「東洋医学とは何か」ということの像が明確なものとなっていった。ということの中身。 . . . 本文を読む
古典(史料)を至上のものとする考えかたの意味するものを考えると、ウーシア(=そのものの何物であるか)を捉えることの大事性痛感する。
昨日、同僚の柔整師と話していて東洋医学とは何かを説明する中で、古典(史料)至上主義の鍼灸師のありかたを例えて、熱心なキリスト教信者の様なものと説いた。
端的には、熱心なキリスト教信者が『聖書』に書かれていることを全て正しいとし、物事の正否の判断も、自身の論の正しさ . . . 本文を読む
鍼術と気についての考察。
鍼術とは鍼を使っての気功術である。とよく言われる。はっきりと気功術との表現を使わなくても、気を補うとか気を瀉すという表現は当たり前の如くに使われる現実がある。
自身では、それはあり得ないこと、荒唐無稽の空想であるとの思いがあったので、例えば、抜鍼後に気が漏れると慌てて?鍼を刺入した箇所を抑える鍼灸師をニヤニヤしながら眺めていたものである。
しかし、である。気の問題を . . . 本文を読む