K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

論理と推論①

2009-11-07 01:17:57 | 論理/思想/理論
最近、論理とは何か、とよく考える。

少し昔の記事で論理至上主義に陥ることの危険性を述べたので、
ここで論理について書くことについて、少しとまどいを覚える人もいるかもしれない。
けれども、論理的であるということは、何かを成し遂げるにあたって、
十分条件ではないけれど、必要条件ではあるとKは思っている。
だから、もう一度、論理というものを整理してみたい。

まず最初の疑問。
論理とは何か、という疑問である。
この問に本気で答えようとすると哲学的な問題も含意しなきゃいけなそうなので嫌なのだが、
基本的には「思考のつながり」といえばよいだろうか。
したがって、論理的であるというのは、思考を上手くつなげられること
と理解してもらいたい。

基本的に論理というのは、演繹法・帰納法・弁証法という三種類がある。
言いかえれば、いかなる人間も、この三種類以外のメカニズムにおいて
推論(=思考をつなげること)をすることはできない。
特に一般的なのが演繹法と帰納法なので、ここではこれについて扱う。

知っている人が多いだろうが、
演繹法とは一般的前提から結論を見出す方法のことをいう。
例えば、

ジェントルマンはモテる。(大前提)

Kはジェントルマンだ。(小前提)

したがって、Kはモテる。(結論)

という推論が成り立つ。
ちなみに、これは演繹的推論の代表格である三段論法と呼ばれるものです。
(とはいえ、この推論にはかなり反論の余地がありますので、それはご自由に笑)
とりあえずこれが演繹的な推論というわけです。

それに対して帰納的な推論というのは、
個別の事例から一般的な法則を見つけ出そうとする推論方法です。
例えば、

Kは犬の頭をなでた。
Kは猫をみてほほ笑んだ。
Kはパンダに興味津津だった。

したがって、Kは動物好きだ。

これは帰納的な推論です。
(これも反論の余地は多くあります。)


ほとんどの場合、人は演繹的あるいは帰納的いずれかの推論をしているといってよいでしょう。
もちろん、それをほとんど意識していない場合がほとんどかもしれません。
ある男女がこんなやりとりをしておりました。
男:「何で遅刻するんだよ!?」
女:「だって、電車が遅れたんだもん。」
このときの、女性の発言は演繹的推論ということができるでしょう。
なぜなら、

電車が遅れると集合時間に遅れる。(大前提)

電車が遅れた。(小前提)

したがって、遅刻した。(結論)

という論理構造を持っているからです。
ここで注意すべきことは、大前提が暗黙に二人の間で了解されているため、
わざわざ会話の中に出てこないということです。
つまり、一つの前提と結論だけで事足りているわけです。

ではここで、疑問です。
おそらく私たちは、話し言葉にしろ、書き言葉にしろ、
帰納的推論を使うよりも演繹的推論を使うことが多いでしょう。
それはなぜか。

おそらく、それは二つの推論の本質的な違いに由来しているのではないかと思います。
それは、帰納的推論は前提が正しくとも「可能性の高い結論」を見つけることが限界であるのに対し、
(例えば、「Kはカラスが嫌い」という新たな事実から前述の結論に疑問を呈すことができます)
演繹的推論は前提が正しければ「確実な真理」を提示できるからです。


したがって、演繹的推論に反論するためには、前提を崩すしかありません。
例えば最初の例を見ると、
「ジェントルマンとは何か?」
「ジェントルマンはモテるのか?」
「Kはジェントルマンなのか?」
といったことを検討し、前提を崩すことによって、容易に反論ができるようになります。

しかし、演繹的推論は帰納的推論に比べて、
日常で使われているために、非常に「すっ」と入ってきてしまう。
ここが怖い。
つまり、論理構造を見つけにくいのだ。

例えば新聞の社説などをみて、
「第一に~、第二に~、第三に~」
と帰納的に書かれている場合は、おかしいと思う点は比較的簡単に見つけられる。

しかし、演繹的推論はなかなか難しい。
要はほとんどの推論の場合、前提は省略されてしまうので、
それを暴かなければならないからだ。

しかし、すべての場合において論理を検証するのも面倒くさいので、
いかにしたものかと、悩んでいる今日この頃です。

(なんか最後の方グダグダになってしまったので、次の機会にまた関連記事を書きます。)

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