K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

「体育会系」は既に時代遅れではないか

2009-11-02 18:58:22 | 日本情勢
体育会を否定するつもりはないが、、
もし体育会の文化を企業の人事制度に持ち込むならば、それは既に時代遅れだ。
おざなりだが、今回は改めてこのことを主張したい。

まず本題に入る前に、体育会系企業とは何かについて考えておきたい。
様々な特徴があるかもしれないが、この記事では以下の二点を重要と考える。
①上司に絶対的な権威があり、部下は盲心的に命令を実行するという、絶対的なヒエラルキー構造
②成果を仕事の「質」ではなく「量」によって評価する風潮

実はこの二つの特徴は、日本の伝統的かつ極めて特殊な人事制度である「終身雇用制」に関連がある。

まず最初の特徴であるヒエラルキー構造は、
人材の流動性を極小に抑える終身雇用制によって温存されてきたといってよい。
終身雇用制は人材を一生雇うことを前提とするために、中途採用の供給を限りなく減らす。
言いかえれば、会社を抜けるということの従業員側のリスクを最大限高めるということだ。
だからヒエラルキー構造の下で従業員に理不尽な処遇をしているとしても、
人が流出するという企業側のリスクは最大限抑えられていたといえる。

また一生雇用が保証される終身雇用制においては、
従業員が仕事の成果、すなわち「質」にこだわるという風潮が醸成されにくい。
それよりも、むしろ上司に気に入られることが第一義も目的となり、
そのためには体育会系で培った非合理的な努力、
すなわち「量」が、有効な一手段であったことに疑いはないだろう。

確かに、既存の経営を続ければ業績を伸ばすことのできた数年前までは良かったかもしれない。
だがグローバル化の進む中、体育会的人事制度は既に時代遅れで、
中長期的にみれば確実に崩壊するだろう。
逆にこれらの制度を温存すれば、企業は確実に衰退に向かう。

理由は簡単で、体育会的人事制度では企業が優秀な人材を集められなくなるからである。

今まで盛んに言われていることだが、終身雇用制は崩れかけている。
グローバル化の中で競争が激化すれば、企業はより優秀な人材を雇い続けなければならないが、
新規人材を雇うにはある程度の雇用カットをせざるを得ないからだ。

終身雇用制が崩れていく中で、体育会系企業にどのような示唆があるか。
第一に理不尽なヒエラルキー構造にうんざりした優秀な人材は企業を抜けることをためらわなくなる。
あらゆる企業が優秀な人材を欲するからだ。
例えば外資系企業は、グローバル化の中の規制緩和のトレンドに乗って急速に増え、
日本人材市場における存在感を増している。
彼らは即戦力を求めているので、実力があれば中途でも採用することが多い。
つまり、優秀な人材ならば、同一の企業に一生勤める必要はない。

第二に仕事を「質」で評価しない場合、当然ながら企業の競争力は落ちる。
それだけでなく、評価制度に不満を感じればさらなる人材流出が起こる。
特に注目すべきは女性の動向だ。
男性よりも優秀な女性は多いが、やはり生物学的に体力では劣る。
したがって、少なくとも中長期的には、評価を「量」ではなく
「質」で評価するところに優秀な女性の人材が集まるようになる。
言うまでもなく人口の半分は女性なので、
優秀な女性の雇用を確保できない企業はやがて競争力を失う。
当然、セクハラが公然と認められる体育会的文化は、グローバルスタンダードになりえるはずがない。

したがって、グローバル化が進み、終身雇用制度が崩壊に向かうにしたがって、
①ヒエラルキー構造と②「量」の人事制度に依存する、
体育会系の人事制度は完全に時代遅れになる。
高まる人材の流動性に対応できなくなるからだ。

逆にフラットかつ成果主義の企業は競争力を強めるだろう。
フラットで誰もが意見を述べることができれば、
先行きの分からない時代でのイノベーションを起こしやすい。
また成果主義を採ることで、優秀な人材を積極的に確保することができる。


労働者の視点から言えば、中長期的にはこうした変革に対応できる人材として育つ必要がある。
つまり、人材の流動性が高くなる中で、
いつでも転職できるように自分の名前の後ろに値札がつくように努力する必要がある。
それはよりよい待遇を求めるキャリアアップの意味でも、
リストラなどに備えるリスクマネジメントの意味でも重要である。
つまり、よくもわるくも、いつでも変えのきく企業の駒になっていてはこれから通用しない。
そのことを踏まえた上で、自分が何を目指すのかということを、
日本だけでなく世界レベルで考えることが、これから求められるのではないだろうか。

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