K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

論理と推論②

2009-11-08 03:36:02 | 論理/思想/理論
ごめんなさい。
前回の記事、酔っ払いながら書いたからか、ちょっと適当になりすぎたので若干訂正しました。

そんでもって今日はその続きです。
というのも、前回の記事ではダラダラと書きすぎて、
本当にKが悩んでいることについてあんまり書けなかったからです。

つまり、思考をつなげるとはどのようなことなのか。
特に実践的な意味で、どのようなことに注意すれば批判的かつ論理的に物事を見ることができるようになるのか。
例えば、日常生活の中、人との会話や社説の読解のような緩いコミュニケーション行為の際に、
何を注意しておけば、人の言いたいことを的確に理解できるのか。
また、自分の主張を効果的かつ説得的に伝えるには、どのようなコミュニケーションの構造を作るべきなのか。

そんなことを昨日の夜は、ツラツラと考えていたのですが、
そのために肝心の論文が手がつかなくなる事態。
まったく情けないです。

おっと、話が逸れましたね。

では本題に入ります。
昨日は演繹法と帰納法について述べたのですが、
文章(または口頭)全体から構造を眺めた場合、
「マクロから」と「ミクロから」の視点に分解できると思っています。

「マクロから」構造を見るというのはより一般的かもしれません。
つまり、全体の主張を捉え、(ex. アフガンの給油を打ち切るべきだ)
それをサポートするいくつかの理由を捉え、
(ex. 給油がアフガン復興に役立っていない、よりよい民生支援の在り方があるetc...)
その理由を根拠づけるevidenceを確定する。
主張-理由-論拠のリンクは演繹法ないしは帰納法によって裏づけられています。

俗にいうピラミッド・ストラクチャというやつです。
(主張を頂点にサポートの構造がピラミッド状に拡がるから)

しかし、論理構造が非常に明快な論文やビジネス文書なら、
「マクロの」観点からのアプローチだけでもよいかもしれませんが、
人間なんてそんなに論理的に話せたり書いたりできるものではありません。
むしろ、何となく説得力があるかなっていう「感覚」にしたがって、
何かを発信することが多いのではと思っています。
ですので、受け取る側としても、「マクロから」のアプローチによって、
相手の言う論理構造を推定することは難しいのです。

より重要なのは、センテンスごとの「ミクロから」のアプローチを取り入れることではないか、
それにより、話者・筆者が何を言いたいのかを(本人がそれを自覚していない場合にも)
的確に読み取ることができるのではないかと思っています。

「ミクロから」のアプローチは意味の最小構成単位として、基本的にセンテンスに着目します。
(センテンスとは文章ですが、同じ意味の言い換えは一つのセンテンスとして数えます)
そして、人が発信するセンテンスは(単に事実を述べるものを除けば)、
それ自体が「主張」になるか、「違う主張の理由」になるか、
基本的にそのどちらか(またはどっちも)しかありません。
(ピラミッド構造を想像すれば感覚的にそう思うでしょう。)

それ自体が「主張」になる場合、他に理由付けがないかを探します。
つまり、「私は~と思う。だって~」といったような場合は、
前者が主張となり、後者が理由付けとなります。

また、「違う主張の理由」となっている場合は主張を探すことになります。
「私は~と思う。だから~」という場合は、
前者が理由付けで、後者が主張です。

こうしたミクロの構造が階層状になって、マクロのピラミッド構造を構成します。


そしてここで注意すべきなのが、前回述べた演繹法と帰納法の関連です。
まず、主張に理由付けが一つの場合は、演繹的推論の可能性が高いでしょう。
なぜなら、演繹法は前提が正しければ「必ず」結論も正しい。
したがって、複数の理由付けをする必要がないのです。

この前述べた例から引用すると、
「遅刻したよ。電車が遅れたからさ。」
となっている場合は演繹的推論となるでしょう。

なぜなら、電車が遅れた→遅刻は、(100%でないにしても)かなり高い確率で結論を導けるからです。
しかし、100%でないというのは、前提に疑問があるからです。
前回述べたように「電車が遅れれば、遅刻する」という隠れた大前提があって、
そこに反論の余地がありうるのです。
(たとえば、もっと早く家を出れば電車が遅れても遅刻しなかったかもしれません。)

逆に、主張に複数の理由がついている場合には帰納的推論を疑うべきです。
帰納的推論の場合は、あくまでも「可能性の高い結論」を導くのが限界なので、
前提に加えて、論理構造自体を疑う必要があるからです。
つまりAという主張にB,C,Dという理由がついていて、それらが全て正しい場合でも、
B,C,DならばAといえるのかについては確証がありません。
したがって、帰納法は論理構造を厳しくチェックする必要があります。


最後にまとめると、
人が発信する会話や文章は、演繹的・帰納的推論の集合体であるといえます。
そしてそれをチェックするために、「マクロから」と「ミクロから」のアプローチを
効果的に使い分ける必要があると思っています。
「マクロから」にこだわりすぎて、論理構造の一部を見落としてしまったり、
「ミクロから」にこだわりすぎて、重要でない部分にこだわってしまうことは
避けなければいけないでしょう。
要は人の話を聞いたり読んだりしながら、もしくは自分の話を言ったり書いたりしながら、
しっかりと論理の構造をつかむことが重要だと思います。

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