おはようございます。
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城下町というと新町、古町を思い浮かべる人も多いと思います。
古い建物が残っていますからね。
でも、鶴屋界隈も城下町です。ここらへんは熊本の中心街で、ビルが多く、昔の面影は残っていないので城下町というイメージが湧かないんですよね。
加藤清正公は天正16年(1588年)に肥後北半国の領主となり、熊本に入ります。その直後から城下町形成に取り掛かったと伝えられています。
藩政時代、町名に『町』が付く場合、以前は『ちょう』と『まち』で区別していました。
丁(ちょう)・・・武家屋敷
町(まち)・・・町人の町
水道町は武士が住んでいたので『すいどうちょう』です。
では駕町(かごまち)は?
熊本の方ならここがどうかわかりますよね?
鶴屋とパルコの間の通り、駕町通りです。
現在、『駕町』という町名はありません。手取本町、安政町が現在の地名です。
この案内板見たことがあります?
駕町通りにあるんですよー
駕町通りの由来
この一帯は、その昔、代継宮の神田でしたので神田原と呼ばれていました。加藤清正が代継宮とその神領を白川左岸に移し、跡地に侍屋敷を開きましたが、その頃からこの一帯は切米取りと呼ばれる同一職種の侍屋敷となっています。この通りは、藩主とその一門の人々を乗て運ぶ御駕籠衆の居住地でしたから、俗に御駕小路とか駕丁と呼ばれていました。 駕丁の東の通りは戦のときに幟を掲げる御昇衆の居住地で昇町、西の通りはお抱え力士の居住地の相撲町と呼ばれ、明治12年に正式の町名となり、明治40年までその町名が続いていました。(案内板より)
駕町は侍屋敷だったので、『かごちょう』と読んでいいと思うんですが・・・
歴史の詳しい人に聞くと、『"かごちょう"だった』という人もいるんですが、私の愛読ブログ『津々堂のたわごと日録』には『「鷹匠町」「駕町」などは「まち」と言っていたように思うのだけど・・・・』と書いてあるんですよね。
『かごちょう』なのか『かごまち』なのか史料に出会えていないので、わかりませんが、いつの日か解明する日が来ると信じて、これからも歴史散策、史跡散策をしたいと思います。
ここらへん一帯の町の由来を知ると、藩政時代が少しわかるんですよね。そこらへんは追々アップしますね(^○^)
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