くまもとよかとこ案内人の会

熊本観光ボランティアガイドの会です。主に熊本城や熊本市内をご案内いたします。

新町さるく4(新三丁目御門)

2019年04月27日 | ガイド”もっこす”

新三丁目御門は、撤去されましたが、明治8年(1875年)に「通潤橋(つうじゅんきょう)」や「霊台橋(れいたいきょう)」を造った明治の名石工橋本勘五郎が、東京「日本橋」、皇居「二重橋」を架設したのち、帰郷し架設されたので「明八橋」と呼ばれ、熊本市を流れる坪井川に架かり、新町2丁目と西唐人町を結んでいます。昨年5月から1年間、殿さまの命により、肥後城下町の探索を続けてきましたが、新たに熊本領内の探索を命じられ旅に出ます。暫くの間皆様とお別れです。いつの日か新たな藩内の情報をお知らせできる事を楽しみにしています

 

 


新町さるく4(高麗門)

2019年04月20日 | ガイド”もっこす”

高麗門(こうらいもん)は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に加藤清正公によって造られ始めた城門である。しかしながら門は明治初期に解体、掘も1891年(明治24)に埋められた。現在は高麗門跡の近くのJR線踏切を超えると横手の寺町に入る。この付近は妙解寺、安国寺、妙永寺、立正寺、瑞光寺など、多くの寺院があり、2月15日には涅槃会(ねはんえ)が各寺院で催され、特に妙永寺の涅槃画像開帳は有名でした。また参拝客を目当てに加藤清正の時代から市が開かれていました。この市を釈迦市、高麗門の市といいましたが、近年まで熊本に春を告げる風物詩として市民に親しまれていた白川河川敷の植木市の源流です。

 


新町さるく3(新一丁目御門)

2019年04月14日 | ガイド”もっこす”

二の丸公園への上り口に清爽園と言う公園があっと。現在、YMCAがありまが、ここは熊本城の正面登城口であり、薩摩・豊前、豊後街道の始まりの起点でした。また城下の人々に様々な決まり事を示す高札が立っていた札の辻と呼ばれていました。また神風連の乱で首領太田黒伴雄が最後を迎えた地でもあり、西南戦争で法華坂での戦いがあった所です。

 

 

 

 


新町さるく2(隈本城)

2019年04月07日 | ガイド”もっこす”

洗馬橋の袂に、在中央郵便局がありますがその奥に第一高等学があるとタイここが古城と呼ばれる「隈本城」のあったとこタイ。古城堀端で育ち、石垣に登ったり竹で吹き矢を作ったり、楠の枝で刀を作りチャンバラごっこで日暮れまで遊んどったタイ。残念ながら堀は昭和28年の大水害の時、埋め立てられ以前の“れんこん堀”と言われた姿は残っていません


新町さるく(”たぬき”も”えび”さもいるよ洗馬橋)

2019年03月30日 | ガイド”もっこす”

船場橋の袂には、新町に入るために設けられた29門の1つ船場柳御門があったと。御門は、熊本城下の南東、船場橋から山崎町方面を監視する関所門で朽木家(くつきけ)が厳重に警戒していた。門の構造は跳ね上げ式で、番所が置かれ、門の前には勢屯(せいだまり)と呼ばれる広場がありました。坪井川沿いには、後には「船場山」と呼ばれる小高い土居を築かれ、土居には柳を植えてあったことから「柳の御門」と呼ばれていたそうたい。慶長15年(1610)には加藤清正が熊本初の阿国歌舞伎の勧進興行を行なったと伝えられているよ。ここに貯木場や物資の荷揚場があり、船場・塩屋町として賑わっていた。かつて物流の大動脈だった坪井川の船着場として栄えた船場界隈は「肥後てまり歌」発祥の地との説も!