くまもとよかとこ案内人の会

熊本観光ボランティアガイドの会です。主に熊本城や熊本市内をご案内いたします。

名君細川重賢公と櫨

2018年12月22日 | ガイド”もっこす”

前回は、「赤穂事件と櫨」の話をしたばってんが、延享四年(1747年)8月15日に江戸城で発生した板倉勝該(いたくらかつかね)事件は、肥後細川藩にとっては「青天の霹靂」、急遽六代藩主となったのが重賢(しげかた)公・・この方が財政再建の柱に「櫨」・・不思議な「縁」ですタイ。


忠臣蔵と櫨

2018年12月15日 | ガイド”もっこす”

12月14日は、歴史上有名な「赤穂浪士討ち入り」の日です。拙者も以前、赤穂義士が祀られている品川の泉岳寺にお参りに行ったコツがあるバイ。約270年続いた江戸時代、江戸城で7件の刃傷(傷害)事件が起きています。その2件に肥後細川家が係わっています。始めは、1701年(元禄14年)3月14日に起きた播州赤穂浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)公家吉良上野介対する刃傷事件(赤穂事件)。2件目は1747年(延享四年)8月15日に起きた板倉勝該(いたくらかつかね)が肥後五代藩主細川宗孝に対し、間違って刃傷に及び宗孝公は死亡、細川家にとっては藩の存亡の危機に及んだ大事件です。事件内容、年代は違っても事の発端が江戸城での刃傷事件であり、その話の結末が何故か「櫨(ハゼ)」と言うキーワードなのです。この2つの事件に不思議な”縁”を何故か感じるのは、拙者の思い過ごしかも!そぎゃんこっぁ~どぎゃんでんよかバッテン、今回と次回はこの2つの不思議な「縁」について紹介するタイ。


土木の神様2

2018年12月08日 | ガイド”もっこす”

二本木の“せいしょこさんの背割塘”についてしゃべったばってんが、少し上流に逆登っと"長六橋"があっと。熊本城の外堀として利用した白川には、敵の侵入を防ぐため橋は架けず渡し船を利用していたそうです。江戸時代、肥後と薩摩を結ぶ薩摩街道に架けられた唯一の橋、右岸の下河原に上座、下座の二つの芝居小屋があり、下河原は芝居小屋を始め市場も立並ぶ繁華街となり、熊本の繁華街、歓楽街のルーツといわれる。対岸には刑場もあったという。明治10年の西南戦争の時は、薩摩軍がこの橋を渡り、侵攻してきた歴史的な橋でもあり、西郷さんも渡ったかも?


土木の神様

2018年12月02日 | ガイド”もっこす”

先月、ガイドばしょったら「11月18日は、土木の日」とお客さんが言うとった。十と一で土、木は十と八に分かれるそうで、明治の早い頃に設定したそうです。他にも理由はあるそうですが!その時、清正公は“土木の神様”との話があり、熊本を発展させたセイショコさんのインフラ整備の偉業を紹介するシリーズを始めます。古町さるくで祗園橋の近くに来とったことから、熊本発展のキーポイントである背割石塘(せわりいしども)の話をします。あんた達は多分立ち寄った事はなかと思うよ。