熊本城のお膝下である新町、古町を始めとする町には、江戸時代を物語る建物は、全く残っとらんと。西南戦争の時、熊本城を守る官軍司令官谷干城(たにたてき)少将は、「堅壁清野(けんぺきせいや)」(石垣を守る)による籠城(ろうじょう:城に籠る)作戦をとる事を決心しました。このため住民達へ戦いの被害が及ぶ事を避けるため城下外への避難を呼びかけました。そして住民の避難を確認した後、市街地に火を放ち(城下を敵が使えないようにし、またお城からの大砲・小銃の射撃を容易にするため)焦土化したそうです。また原因不明と言われる天守閣火災の飛び火により市街地が延焼し、市街地の大半が焼けました。更に、薩摩軍が熊本城攻撃から包囲に作戦を変更した後、坪井川を堰止めし城下を水没させ、熊本城を孤立化し官軍が進出できないようにしました。熊本城下に明治以前の建物が残っていないのはこの火災、水攻めにあい、城下町は”ひちゃんくちゃん”になったつかも知れませんね。西南戦争後、熊本市街地の約65%が焼失し住宅を焼失した住民に対し、明治政府は我が国初の戦後補償として一件当たり1等100円~8等10円 (200万円~20万円)に区分し保障したそうです。
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