くまもとよかとこ案内人の会

熊本観光ボランティアガイドの会です。主に熊本城や熊本市内をご案内いたします。

新町さるく(”たぬき”も”えび”さもいるよ洗馬橋)

2019年03月30日 | ガイド”もっこす”

船場橋の袂には、新町に入るために設けられた29門の1つ船場柳御門があったと。御門は、熊本城下の南東、船場橋から山崎町方面を監視する関所門で朽木家(くつきけ)が厳重に警戒していた。門の構造は跳ね上げ式で、番所が置かれ、門の前には勢屯(せいだまり)と呼ばれる広場がありました。坪井川沿いには、後には「船場山」と呼ばれる小高い土居を築かれ、土居には柳を植えてあったことから「柳の御門」と呼ばれていたそうたい。慶長15年(1610)には加藤清正が熊本初の阿国歌舞伎の勧進興行を行なったと伝えられているよ。ここに貯木場や物資の荷揚場があり、船場・塩屋町として賑わっていた。かつて物流の大動脈だった坪井川の船着場として栄えた船場界隈は「肥後てまり歌」発祥の地との説も!


できたバイ熊本駅

2019年03月23日 | ガイド”もっこす”

JR熊本駅(熊本市西区)の在来線新駅舎が3月16日に完成したバイ。駅舎は高架上に鹿児島線と豊肥線の発着を集約、ホーム真下に改札口があっと。世界的建築家・安藤忠雄さんが設計しなはったとです。白川口(東口)のグレーの外壁(幅240メートル、高さ最大12メートル)は熊本城の石垣「武者返し」をイメージし県産木材を多く使い「森の都」と言われる熊本らしさばだしなはったそうです。2001年度に着手しました鹿児島線(6キロ)と豊肥線(1キロ)を高架化し、15カ所の踏み切りを無くした連続立体交差事業は、18年の歳月、総事業費は約626億円で、駅舎建設に約24億円かかったそうです。


西南戦争逸話2

2019年03月16日 | ガイド”もっこす”

西南戦争熊本城の戦いにおいて、籠城策を決めた熊本鎮台は、陣地の構築、弾薬等戦いの準備を行いましたが、約3,500名の鎮台兵や将兵家族のための食料の備蓄も開始しました。米、味噌、日本酒・・・煙草等約1ヵ月分を確保しましたが、戦闘が開始され3月初め頃には、残った食料も心細くなり、薩摩軍の包囲の中、城下から粟、稗、濁り酒を調達したり、城内の堀から鮒、鯉、芹、菜の花を採ったり、豆腐の醸成、ぼた餅を作ったりして頑張ったそうです。兵隊さん以外にも西南戦争を戦った人達がいたんですね。また熊本城下の市民は、薩摩軍の動きに応じて逐次避難を開始したようですが、2月15日熊本鎮台は正式な退避命令を出し、市民の戦災被害を避ける努力もなされたみたいです。


西南戦争逸話

2019年03月09日 | ガイド”もっこす”

 

西南戦争“熊本城の戦い”には多くの逸話があっとバッテンが、今日はその一部を紹介しよかね         ①西南戦争籠城将校家族避難跡                                                                           鎮台司令・谷干城婦人・谷玖満子(たにくまこ)を始め将校・兵の婦人達が弾丸の飛来を避けるため熊本城二の丸薬研堀避難しました。彼女等は傷病兵の看護などに当たりました。籠城中は戦闘員以外は、粟飯や粥が配給されていましたが、こればかりでは辛いと思った玖満子婦人は、皆と共に戦いがやむと城内外で野草をつみ、食材調達に励んだそうです。この玖満子婦人、相当な“やりての方”で、彼岸前に餅米の配給があった時、婦人は“ぼた餅”造りを発案し“道具は何とかする・・・”としてある日の夜半、単身城の塀を乗り越え、城下の焼け残った家屋から道具を次々戦時調達で失敬!泥だらけになって、すりばちなどを持って帰って来なはっった。こっで作られたぼた餅は、将校から兵にまで行き渡り、鎮台兵の志気を高めることに役立ったという話が伝わっています            ②赤十字の精神                                     熊本藩主等を診察する医師でありました鳩野宗巴(はとのそうは)は、薩摩軍熊本隊より熊本城の戦闘で傷ついた兵士の治療を依頼されますが、戊辰戦争の際、国際赤十字の医師としての博愛精神を学んだ経験のある宗巴は、薩摩軍・政府軍の別なく治療することを条件に治療を承諾します。患者が多く、病室が足りなくなると、民家を借りて治療にあり、また医療活動は皆自費で行われ、近隣の婦人達が競って看護に協力し初めての戦陣での組織的な女性の看護活動も行われました。


”ひちゃんくちゃん”になった城下町

2019年03月02日 | ガイド”もっこす”

熊本城のお膝下である新町、古町を始めとする町には、江戸時代を物語る建物は、全く残っとらんと。西南戦争の時、熊本城を守る官軍司令官谷干城(たにたてき)少将は、「堅壁清野(けんぺきせいや)」(石垣を守る)による籠城(ろうじょう:城に籠る)作戦をとる事を決心しました。このため住民達へ戦いの被害が及ぶ事を避けるため城下外への避難を呼びかけました。そして住民の避難を確認した後、市街地に火を放ち(城下を敵が使えないようにし、またお城からの大砲・小銃の射撃を容易にするため)焦土化したそうです。また原因不明と言われる天守閣火災の飛び火により市街地が延焼し、市街地の大半が焼けました。更に、薩摩軍が熊本城攻撃から包囲に作戦を変更した後、坪井川を堰止めし城下を水没させ、熊本城を孤立化し官軍が進出できないようにしました。熊本城下に明治以前の建物が残っていないのはこの火災、水攻めにあい、城下町はひちゃんくちゃん”になったつかも知れませんね。西南戦争後、熊本市街地の約65%が焼失し住宅を焼失した住民に対し、明治政府は我が国初の戦後補償として一件当たり1等100円~8等10円 (200万円~20万円)に区分し保障したそうです。