映画 オッペンハイマー
十分予習していってそれは役だったけれど、もっと予習が必要であった。しかしこれ以上の予習だと原作の本を読まねばなるまい。もっともやった予習はオッペンハイマー本人に関してであって、原作の小説が史実からかなり変形されているだろうから百科事典を読む程度の予習は役に立たない可能性が高い。
映像も音楽も構成もよく練られていて、この話題に不快感を抱く人は別にして多分高い評価をするだろうと思う。ただ、後半はアメリカの法廷映画になってしまっていて日本人には退屈である。日本人も権力闘争するけど、陰湿な闘争に間にちょっとした情が挟まっていてそれが救いになるような描き方をする。アメリカの法廷映画では、徹頭徹尾言葉のバトルになっているからフェアを志向していると主張しながら結局気の強い奴が勝つという不満が見ている側に残る。これはプロレスである。われわれは大相撲に慣れ親しんでいるので、後半の描き方はついていけないものを感じてしまう。外国の映画であるからやむを得ないとは思うが。
同じく伝記映画のアラン・チューリングも仕事を完成した後悩むことになっている。(実際史実でもひどく悩んだ。)このように戦争中大活躍してあとで悩む人物を取り上げるのはどういうメッセージなんだろう。まさかと思うが、会社のために新技術を開発しているそこのあなた、一時は称賛してくれてもあとでひどい目に会いますよという脅しではないでしょうな。史実ではないと思うが、オッペンハイマーがリンゴに毒を注入する場面を見てそう感じた。チューリングは実際にリンゴに毒を塗ってそれを齧ったとされる。白雪姫もリンゴに毒である。リンゴに毒は西洋では何らかのメッセージであると考えられる。
アメリカ共産党という聞いたことのない名前が出てきてびっくりした。知らなかったが昔はあったようだ。レッドパージで根こそぎなくしたんだろう。この時海外に逃げることができなかった者はどうしのだろうか。このレッドパージが今のアメリカを作ったようである。単一の思想にするから何かと国家運営はやりやすかっただろう。ただ単一の思想にするとその単一の価値を巡っての競争社会だけが出現する。和洋中(ほんとはここにトルコ料理が入るべきだと思うが)何でも並んであるところがいいのであって、全部ハンバーグ店では楽しみがない。その楽しみをなくしたのが、この映画の後半のレッドパージであろう。あれだけの戦勝国でさえ被害にいまだに苦しんでいる。自分たちは、巨大なものを作って戦争に勝ったけど幸せではない、巨大なものを作った者もこれだけ苦しんでいるぞ。俺たちを崇拝してそのあとをついてきても、もう駄目だぞというメッセージであると思う。
ごく若いころのJ・F・ケネディーが少しだけ出てくる。これも重大なメッセージだと思うが何だろうか。
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