映画 オッペンハイマー②
昔のアメリカ映画は、西部劇が典型だけど観客は出演者と一体化していい気分になるものであった。観客の中には、帰るときに主役を気取った歩き方をする人までいて他のヒトの笑いを誘ったのである。これは初期の007の映画(こちらはイギリス映画と思うが)にも見られたことである。人々は日常のまたは仕事の憂さを晴らすためにお金を払うという認識であった。
それが、進歩したというべきかどうかこの映画のように主役が不条理な目に会うという風に変化してきている。これでは、観客はいろいろモノを考える材料を得ることができるが、いい気分にはなれそうにない。金を払って他人の苦悩を見に行くとは怪訝である。この映画を見て、ああ俺は頭が良くなかったおかげでこんな窮地に立つような仕事が回ってこなかったから幸せである、という単純な感想を抱くものは居ないであろう。
西部劇や初期の007の時代は、目の前の仕事やっておけば幸せな気分になれた時代であった。もちろん腹立つこともあったがそれは周囲の人間関係に起因することで、自分のやっている仕事がどんな悪い結果をもたらすかなんてことは考えなくてよかった。それが、そうでもないことに人々が気づいてきた。これが最近の映画に主役が不条理な目に会うの傾向が表れてきた原因であると見る。
西洋文明の行き詰まりは、1970年台の学生運動の頃から叫ばれていたが、それは一部のヒトの言葉だけのことであった。(今思うと先見の明ある言葉であった。)半世紀を経て本当に行き詰ったとすべてのヒトが納得しているからこの映画が評価されると思う。
行き詰ると、行き詰らなかった過去のある時点にまで立ち戻りたくなる。オッペンハイマーは、インドの神話の一節をサンスクリット語で読み上げていたが、(かなり気障な場面で読んでもいいけど英語で読むべきだと思うが)ついにアメリカ人も悩んでインドにまで立ち戻るかとの感慨を新たにした。荒唐無稽な映画インディージョーンズでは、古代オリエントに立ち戻る場面があってその時にも感じたことであるが、あの何でもかでも征服しに行こうというアメリカ人も内心は悩んで苦しんでいるのであると少し安心した。征服癖を今少し少なくすると、悩みが少なくなりますよとアドバイスをして差し上げたい。
それは我らにも言えることで、今少し出世欲を減らすと悩みは少なくなるはずである。これがインドの神話を読む場面でわたしが感じたことである。
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