小説 清玄坊の出奔①
黒川孝彦は、母一人子一人の境遇である。父親に会ったこともない、今ドコにいるかもしれない、ただおじさんが一枚の写真を手渡しこれが父親だと告げたことがあった。写真では大変な美男子であった。親子はある大きな寺院の門のそばに小さな家を借りて住んでいる。母親は保険の外交をやっていたが最近は売り上げが落ちてきて生活は苦しく、先の見通しも立たない状況であった。
地元の高校三年生であった黒川は一も二もなく就職を希望した。それはこの境遇だからというわけでもなく単に勉強が嫌いだったからである。この境遇は、就職を選ぶにはちょうど良い口実であった。それに黒川は父親似の美男子である、この子が東京の大学に出てはどんなことをしでかすか分からぬと母親は心配した。貧しくても手元に置きたかった。
地元のといっても十キロばかり離れた自動車部品の会社に正規の社員採用になったのは彼を含めて二人であった。朝早くに迎えのマイクロバスが家の近くまで迎えに来る、残業で遅くになっても同じバスで送ってもらえる。給料は、残業代を含めると驚くような額であった。母親に相当額を渡すと残りは全部貯金に回すことができたので一年間でかなりの額を貯めることができた。何に使おうというわけではない、ただ貯金のある生活をしてみたかっただけである。
高校の時の同級生で大学に行った友人が就職するころのことである。黒川の工場では急に派遣工員が居なくなって残業もなくなった。送り迎えのバスの送迎も中止になったし、昼ごはんの質が目に見えて悪化してきた。テカテカしていた社長の頭がくすんだ感じになってきたころ、希望退職募集の張り紙が工場内に掲示された。はじめは五十歳以上であったが、それが四十五歳四十歳と年齢が下がってきた。電気自動車が売れ始めたので、ガソリンエンジンの部品である黒川の会社はかなりの苦境に立ったようである。
まだ希望退職が四十歳以上の者になっていたころのことである。人事部長が黒川を呼び出し、二、三枚の書類を示した。それは市役所からの職員募集の募集要項であった。給料は悪くないし残業もない。きっと今まで法人税でお世話になった会社に、少しでもお返ししようと市役所の連中が特別の便宜を図っているのであろう。
「何で僕にですか?」
「若いのでないと新しい仕事は無理なんだ。だからこうやって若いヒトにも声をかけている。もう私も含めて年寄りはこの会社と一緒に倒れることになるかもしれん。大きな会社なら新しい分野を開くこともできるが、ウチはこれ一筋だからな。今なら退職金を二倍にするがどうかな。」
三十万円が六十万円になってもさして嬉しくもないが、しばらく考えてみるとだけ返事した。部長はその書類にさらに一枚墨で書かれた書類を重ねて
「これは君の家の近くのあの寺からの求人だ。給料安いしいろいろ制約があるから気に入らないだろうがまあ一緒に見ておいてくれ。市の職員の仕事はこっちから頼み込んだものだが、寺の仕事は向こうから頼むからヒトを回してくれと言ってきているんだ。」
と言った。
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