中尊寺金色堂の映像をみる
現地に行って見ることは多分ないだろうから、東京博物館へ見に行った。金色堂そのものはさすがに運べないので、お堂の中の映像と仏像だけであるが見事なものである。仏師の名前が残っていないのは、このころは名前を残す習慣がなかったためだろう。はるばる京都から腕のいい仏師を招聘したのであるから、奥州藤原氏は大変富栄えていたに違いない。しかも、南洋の貝を輸入して象嵌を施してある。富の原因は、単に砂金が取れただけではなく貿易にもあったようである。
川で砂金が取れたということは、このあたりには金山があったのではないのか。佐渡や山梨の金山だけではなく、東北のこのあたりにも金山があったのではないかまたは開発されていないだけでなく今でもあるのかもしれない。もしあれば、わが国は世界の工場にならなくても掘り出されるキンだけで左団扇の国にならないのかとこの形のいい金の仏像を見ながら妄想した。
京都の金閣寺は、海外貿易の際に使う迎賓館として建てられただろう。凄いものを相手に見せておかないと価格交渉の際に有利にならない。画家に絵を依頼する際に、豪邸に住んでいる画家なら絵の価格は高くなるのを覚悟しないといけない。(従って時々金閣寺で外国の首脳を接待することがあるが、あれは正しい使い方であると思う。)しかし、金色堂は違う。仏像を大量に安置してしかも藤原三代の遺骨ではなくミイラを安置する。迎賓館にこれはないだろうから、墓地としてつくったと考えられる。ミイラにすることや墓地を立派にすることなど、どうも京都とは思想が全く異なる地方である。であるのに京都の仏師に京風の仏像を刻ませたのは、現在の我々から見ると違和感がある。違う思想なのであるから、違う形の像にしておかねばいけないのではないのか。
聞くところによると源頼朝は、うまいこと義経を奥州に逃げ込むようにしむけて奥州をわがものにした。(このころの政治手腕は見事で、今の政治家の皆さんには是非見習ってほしい。)そこまではいいけど、なんでそのあと奥州から富が鎌倉に流れ込まなかったのか。なんで平泉の経営をやめてしまったのか。無理して取りに行ったのであるからそのあとさらに資本や人材をつぎ込んでさらなる富の源泉にしなかったのか不思議である。
富栄えたお堂の映像を見ながら、上の様な不思議を感じた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます