gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

自民党の黒幕

2018-11-29 17:53:28 | エセー

昼食後は、眠くなる。そんな時、どうすれば、脳が活性化するか。僕の方法は、以前に読んだ本を見返して、ブログに書くことだ。

 

ただ、書くだけでなく、手指をできるだけ素早くパソコンにタッチして書くこと。これが秘訣だ。5分もすると、眠気も吹っ飛んでしまう。一度、試して見られたい。

 

さて、今回は、自民党の主流派という言葉を新聞やテレビでよく聞く。その中で宏池会というのがある。このメンバーは主に、官僚出身者で、他の派閥より偉いんだ、という三区jだしがある。

その考え方のバックボーンに、普段、名前を聞いたことが恐らく少ないだろう。安岡正篤という存在がいた。

 

 この人は大阪の四条畷出身で、小学生の頃から、中国の古典を読み、中学生になると、学校の先生より、近くの人の話がおもしろく、学校を休んで、その人の話を一緒に酒を飲みながら聞いたという。

 

そして、東大へ。卒業後、一度、文部省に入ったが、実践に向かず、半年で退職。その後、腸術活動をして暮らした。以来、どこにも所属せず、諸環58年に亡くなるまで、フリーだった。

 

そして、死ぬ数か月前に、占術家の『大殺界』で有名な細木数子と結婚する。そういう人のお話だった。

 

 

 

塩田潮著 『昭和の教祖 安岡正篤』

1 安岡の学生時代とは?

 

「安岡は大阪の四条畷中学に入ると、剣道部に入った。小学校の頃から、四書五経を始め、太平記、日本外史、十八史略、三国志など、古典や史書を読みふけった。自分も昔の若武者のように振る舞いたいと憧れた。それで、剣道を始めた。

 

 学校の周りには、楠木正行を祭る四条畷神社や、正行の墓がある小楠公御墓所など、楠木正行と堀田正奉の所縁の場所が点在している。剣道の稽古が終わると、そのあたりを逍遥し、若き血をみなぎらせた。

 

  学校よりも浅見の話の方が面白かった。浅見は万年床の部屋へ連れて行くと、一升瓶を片手に湯呑みを差し出した。十五、六歳の少年に朝から酒の相手をさせた。正篤も嫌いな方ではなかった。注がれるままに酒を口に運んだ。

 正篤は、浅見と話し込んで学校を休んだ。

 

2 安岡の祖父は土佐人で、フランス人を斬ったということで、あやうく死にかけた?

 

「正篤の祖父は安岡良亮といって、土佐の出身で、土佐の四傑と言われ、残りの三人は後藤象二郎、板垣退助、明治の司法制度確立に尽力した島本仲道だった。

 

 1868年、2月、譲位運動で、大阪の堺に上陸したフランスの士官と水兵藩兵が多数、殺傷した。大阪にいた安岡良亮もこの騒動に加わった。

 

 明治政府は土佐藩士に切腹を命じた。十一人が堺の妙国寺で自決した。安岡は年長者のため、切腹を免れた。維新後まで生き延びた」と。

 

これを読んで、堺の妙国寺と四条畷神社に実際に行ってみたくなった。

 

3 安岡は終戦時の勅語のチェックや総理の演説内容を書いた?

 

「安岡は終戦の詔勅の原案に朱を入れたり、宏池会という名付け親だった。

 佐藤内閣発足以来、所信表明演説などの重要なスピーチや首相談話の原稿はすべて事前に安岡がチェックした」

 

 

「安岡は佐藤総理にニクソンに逢ったら、老子の「戦いに勝ちては、喪礼を以て之に処(お)る」の譬えを使えとアドバイス。

この意味は戦争に勝ったならば、これを喜ぶよりは、むしろ、葬儀に臨んだように悲しみをもって身を処すべきだ」と。

 

 「大平は安岡邸を訪れた。安岡は一枚の大きな紙と墨書した名前を大平に示し、令名の由来を言い添えた。「会の名前は『宏池会』とするのがいいでしょう。之は中国の後漢の馬融の故事から引いたものです」と。

 

後漢の安帝の時代に馬融という高官がいた。学徳極めて高く、数千人の門下生を擁して人材養成に努めた。

 

 その馬融を顕彰した広成頌に、「髙崗にうてなを臥し、以て宏池に臨む」という一文がある。

 

安岡は、池田勇人の池の字と、この馬融の故事を結び付けて、「宏池会」と令名した」と

 

現在も自民党内に宏池会はある。その由来を知って勉強になった。

 

4 安岡は日中友好で大平正芳や田名角栄を叱った?

 

「田中角栄は大平を連れて北京を訪問する。日中国交回復をした。そのとき、中国の周恩来首相が大平に一枚の色紙を贈った。そこには「言必信、行必果」という文字が並んでいた。後から、安岡は人伝にその話を耳にして怒った。

「大平さんともあろうものが、こんな色紙を黙って受け取るとは」と。

 

 なぜなら、周恩来が贈った言葉は、論語から引用したものである。「言必ず信あり。行い必ず果たす」と読む。

孔子に弟子が、「士たるものはどういう人物か」と聞くと、孔子は「まず、わが身の振る舞いに恥を知り、四方に使いをして主君の命を損なわない物、次に、一族から孝行といわれ、郷里の人から俤順といわれる者である。言うことに嘘がなく、行いが潔い者は、路傍の小石のような小人でも士のなかに含めてかまわない」と答えた。

 

 周恩来は、このなかの、「言うことに嘘がなく、行いが潔い」という部分を取り出して色紙に書いた。つまり、裏に「路傍の小石のような小人」という意味が含まれていた」と。

 

また、「田中角栄首相は毛沢東主席から、『楚辞集註』という中国の珍しい本をもらった。田中も大平同様に大喜びした。田中は、この本こそ日中友好の絆だと言って、訪れる人に自慢した。

 

 しかし、安岡は「田中総理は自慢しているが、毛沢東がどういうつもりであの本を贈ったのか、君たちにはわからないのか」と。

 

 

 『楚辞集註』の「楚辞」とは、中国戦国末期の楚地方の歌謡の事だ。「集註」はそれに対する注釈を集めたものだ。

 

 「楚辞集註は屈原の話が中心です。楚の政治家の屈原は戦国時代、秦に滅ぼされそうになった祖国を見るに忍びず、汨羅(べきら)の淵から身を投げて自殺している。そのような内容の本を中国にたくさんある本の中から毛沢東はなぜ、選んだのかを考えなければならない。一国の指導者が簡単にもらう本ではない」と。

 

 

5 安岡は大学卒業後、ほとんど、著述と政界の黒幕として活動した?

 

 

「安岡は、東大を卒業すると、いったん、文部省に入ったが、半年で退職。実践活動には不向きと

わかり、著述生活を始める。どこにも所属しないで、著作の傍ら、猶存社など活動をする。浪人のような毎日だった。

 このときから、昭和58年に八十五歳で他界するまで、安岡正篤は結局、一度も他人の指揮、監督下で仕事をすることはなかった。生涯、床の間を背にして座る日々を送った」と。

 

「安岡は照心講座で東洋思想と時局について講義した後、出席者から質問があった。

「先生はなぜ政治家を目指さないのか」と。

すると、安岡は、

 「中国の古典の『荘子』の中に、『無用の大用』という言葉があります。無用を知って初めて有用の意味がわかりる。それを肝に銘じて、昔から人を動かすと側に立つことにしている」と。

 

 

 『荘子』には、「用なきを知って、而して始めて与に用を言うべし」とある。大地に立っている人間にとって、用があるのは足が立っている部分だけだが、それ以外の地面を無用だとして全部掘ってしまったら立っていられなくなる、そのとき初めて、「無用の大用」を知ることになると。

 

安岡は号を「瓢堂」といった。この瓢は「ひさご」と訓読みし、壊れた瓶と言う意味。これは無用の長物を意味している。

 

 安岡は、生涯、大用を自らの生き方とした。表舞台で主役を演じないで、裏で人を動かす「シナリオライター」「黒幕」という道こそ我が人生と考えた」と。

 

6 自民党の政治家にとって、安岡との付き合えることはステータスシンボルとなった?

「 吉田茂以後、大平までの歴代首相の中で、安岡が個人的なつながりを持つことができたのは、吉田、岸、佐藤、福田、大平といった人たちである。いずれも官僚出身で、保守本流と呼ばれる政治家ばかりだ。

 

 反対にあまり行き来がかったり、形ばかりの交流に終わったのが、鳩山一郎、石橋湛山、池田、田中、三木武夫といった面々であった。池田を除いて、全員が党人派だった。

 

 

「戦後の政治家にとって、安岡とのつながりが日本の保守勢力の中で一つのステータス・シンボルになった。戦後、日本の保守は自民党、官僚、財界、そして右翼陣営という四つの脚に支えられている。安岡はこの四つの脚のいずれの世界にも師として尊敬された。

 

そして、安岡という「守り札」を手にすれば、保守勢力の中でいい顔ができるようになった」と。

 

 

7 安岡と細木数子の意外な結婚?

 

「細木数子は、占術家として、『大殺界』など多数の著書を書いた。

 以前、島倉千代子が十数億円の手形乱発事件を起こして立ち往生した。そのとき、細木は身元引受人として、島倉をして、「命の恩人」と言わしめた。それから、テレビや週刊誌で細木数子は有名になった。

 

 安岡は、九段の料亭で細木と出会い、四十五歳の細木と安岡とは四十の年の開きがある。しかし、二人は急に親密になった。

 

 細木は赤坂に「マンハッタン」というフランス料理店を経営していた。安岡は三か月半ほとんど、毎日この店に顔をだした。

 

 細木のマンションは赤坂にあったが、安岡はそこに泊まることも多かった。

 

 安岡は妻を亡くして八年、独り身で淋しさを味わった。そこへ四十歳若い妖艶な女性が現れたのだ。耳もとで愛をささやき、痒いところまで手が届く接触を繰り返した。

 

 ついに、安岡と細木は結婚契約書に署名して、婚姻届を出す。

 しかし、結婚二か月後に、昭和58年、12月に安岡は胃潰瘍から心不全を併発して、八十五歳で亡くなる」と。

 

8 僕にとっての安岡の名言とは?

 

「ものごとには、機というものがある。禅家に啐啄同機という言葉がある。卵が孵化してヒナがかえるとき、中からコツコツと殻をつついて、もう十分育ったということを、外の親鳥に知らせるのが「啐」。すると、母鳥は間髪を入れずに、外からつついて殻を割ってやる。これが「啄」です。外からつつくのが、中からつつくのに先じてもいけない。機を同じくして初めてうまく孵化できる。これが啐啄同機です。時代も同じで、新時代を作って行くのにも、微妙な機というものがある。先覚者が少し機を先じると、多くの尊い犠牲になるし、遅れると、民族の悲劇になりかねない」と。

 

9 最後に

安岡正篤は現在ではほとんど使わない漢文を自由に使える人だ。

 

安岡の本は、格調高い文章、品のある文体で僕を圧倒させる。これは自伝だが、本体は彼の書いた本だ。何と多くあることか。目を覚まさせるものばかりだった。