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美は身近なものにある?

2018-11-24 14:30:14 | エセー

最近、常識で考えて、おかしなことがある。数年前までは、気にならなかったが、今、中国人が周りに多くいる。

百円ショップのバイトやマクドの定員、JRの車掌までいる。近所の公園は中国人が占領してしまっている。

だれも、あまり不思議におもっていないのではないか。

これは、おかしい現象だと思う。

さらに、外国人移民法が通ろうとしている。世界が移民受け入れに反対しているのに、反して、自民党の一部の議員は通そうとしている。

この移民法を通して、得をする人は誰か考えると、裏のカラクリがわかるようだ。

今、この法案を押す議員の裏に中国人の影が。自分の懐が膨らめばいいのだろうか。日本国の将来をもっと考えてほしい。

 

さて、話は変わって、皆さんにとって、美とは何でしょうか。

僕は、スポーツ試合の前の挨拶や、終わった後の、「ありがとうございました」の一声に感じる。あるいは、これから、勇ましく戦う前の人の顔に。特攻隊で死ぬ前の酒を飲んでいる姿を写真で見ると、感動する。

 

 さて、森茉莉氏は森鴎外の娘で、フランス痛だ。普段の何気ない事に美を感じる名人じゃないか、と思った。

 

 

森茉莉  『私の美の世界』

 

1 雑誌や新聞を見て、これは美しいと思えば、切り抜いて、空想の世界にふけろう。

 

 「私は、新聞、雑誌の中から気に入った写真を切り抜くのが、生活の中の大きな楽しみになっている。西欧の男の顔。すてきな髪型のパリ美人。泣きたくなるほどかわいい姿や顔の犬、猫。まじめな人間、悪魔人間、等々、種々雑多である。なぜ切り抜くかというと、自分の住んでいるこの世界にきれいなもの、魅力あるものがあまりにも皆無で、みるのもいやな、醜いものばかり、といってもいい位なので、それらの切り抜きを見ていると一刻ほっとするからだ。

 

 

 またそれとは別の目的での切り抜きもある。自分の書く小説のイメージにするためのもので、こっちの方は林の向こうに見える朦朧とした家とか、いかにも悲劇の起る家の食卓といった感じ出ている食卓、寂しさのあるちょっと依怙地な男の顔、恐ろしい顔、狡猾な顔、哀れな病児、凄みのある場面がその中で現出しそうな温室、等々である。

 

 海でも、波打ち際でも、ほんものをながめるよりも、版の悪い新聞雑誌の方が、ぼやけて見えるために、暗い情緒が出ていたりして、例えば恋を失った青年の眼に映る海に適した海辺の写真を感じとることができて、素晴らしいイメージを得ることができるというわけである。

 

 小説を書くのは苦しいが、空想を浮かべていろいろな絵を切り抜いている間は楽しいので、はさみを持っている時の私はきげんがいい」と。

 

今は、インターネトで様々な写真がとれる。いいなあ、と思えばすぐに、保存して、後で、空想に耽れればおもしろい。

 

 

 

 

2 日本ではアメリカの真似をしているのか、人と会話しても、じっと最後まで聞けずに、途中でさえぎる。森氏はこれをとても嫌がった?

 

 「人と話をする時、または人の話をきいている時、素直にしている時、素直にしていられなくて、うるさく神経を使うのは日本人の嫌な癖である。自分と話をしている人間を、なんということなく自分より優れていると思い、相手のいう事に対して、いつもお世話になっております。いちいち、自分もそれを知っているという思い入れをしたり(そうですよ。もちろん知っていますよ)とでもいうように

「ええ、ええ」と重ね返事を、うるさく挿入する。

 

 ラジオで話をしているかなりの偉い人たちにもこのおかしな癖があって、自分が話す番がくるまで素直に相手の人物の話すことをきいていることが出来ないらしくて、大ていの人は(それは私も知っています)といわぬばかりに大きな声で重ね返事をするのである。

 医者とか、または何かの学者に、話を引き出す役になった人が「これこれですね」と意見をはさむ時、素直に「そうです」という人物は少ない。大てい、その相手の言ったことを、同じことでも表現を変えて、ちょっと難しい言い方をする。私はそういう会話をきくと、子供のようだなあと思う。

 

 しかるべき人物がある説をのべると、最後にへんにずれた、まとめを付け足して(これこれだということでございますね)とやる。これがまた、私は嫌いである。

 

 

3 硝子が無性に好きだった?

 

 「私は生来、硝子というものの持つ不思議に憧れている。硝子というものの持っている、曖昧なもの、底のしれないもの、に憧れている。ヴェルモットの空瓶でもいい。コカ・コーラの壜でもいい。フランス製のアニゼットの壜なら一層いい。

 

 何か手近にある綺麗な壜を窓際に置いて、じっと見ていてごらんなさい。ペナンやシンガポール付近の海を見ているような、半透明に薄緑の中に、あなたは何かをみるでしょう。

 

 解らないところにある性格のような不透明、そういう魔のようなものが、私は好きである。

 

 私は甲州葡萄の色が好きで、その色の似合う女も好きである。葡萄紫の甘い、柔らかい色の似合う女というのは、空想の中のグレートフュンである。欲の深い私は、匂菫のような、柔らかな薄紫の硝子がどこかにないだろうかと考える」と。

 

空瓶の硝子から美を感じるとは、思いもよらなかった。落ち着いて、壜をじっと見たくなった。さまざまな空想に浸れるだろうか。

 

 

4 整形美容はしてはいけない?

 

 

「整形美容をする人で、エリザベス・テーラーの目に、モナコ王妃の鼻、というように、注文を出すらしい。

 

 そういう人たちは、だいたい、人間の顔というものがわかっていない人々であって、自分の顔の感じのよさはどこにあるのか、かわいらしさはどこにあるのか、それが毎日鏡を見ていながらわかっていない。不美人は不美人なりに、その人の顔の中にはその人らしさがあるのであって、にわかに顔のひとところだけ変わると、その自然な、その人らしいものは失われて、調和の破れた、どこかおかしな顔が出現する。

 

 かわいらしくて太っていたほおが、変にこけてしまったり、とにかくその人の持っていたその人らしさがどこかへ行ってしまうのが、整形美容である。

 

 

 ちゃんとした、頭のある、魅力ある男は、鋭敏な虫の触覚のようなものを持っていて、女の子の顔の中から、姿の中から、女の子自身の知らないかわいらしさ、その人らしさを発見する。ただ自然にしていて、どこかで自分を見ている男の子にまかせておくのがいい」と。

 

 整形外科で顔を買えても、内面は買えないと思う。日々、修練していい顔になりたい。僕の好きな顔はマザーテレサや神谷美恵子の顔はすばらしい、と思っている。

 

5 何気なく見ているテレビの光景にだまされてはいけない?

 

「事故死をした人間の遺族は、すべてジャーナリズムの演出通りに動いているので、水で死んだ人々の遺族が最後の船の上から花束を投げて、悲し気な表情で、水面をみつめる、という、どこか拵えたもののような光景がその度に展開する」と。

 

これを読んで、毎年行われるプロ野球や高校野球の勝利者インタビューを思い出す。みんな、同じこと言っていないかなあと思う。

 

6 競馬の見方が変わる?

 

「競馬を見ると、彼らのほそい脚が疾走をする時の律動的な美は、典雅な宮廷の舞踏のようである。競技を終わって疾走からながし、並足にと、移り、やがて止る。その脚の微妙な動きは、優雅な古典舞踏の終りに似ている。「まあ・・・・・可愛らし・・・・」」

と。

 

僕は、競馬と聞くと、ギャンブルのイメージしかなく、ここに美があるなんて想像できなかった。やはり、一度は競馬場に足を運ぶのも面白いようだ。