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尾崎一雄の虫の見方はおもしろい

2018-11-04 15:07:19 | 

尾崎一雄著 『虫のいろいろ』他数編

 

尾崎一雄は死ぬまで、病気との闘いで生きたようだ。

 

1 「私がこの世に生まれたその時から、私と組んで二人三脚をつづけて来た「死」という奴、たのんだわけでもないのに四十八年間、黙って私と一緒に歩いて来た死というもの、そいつの相貌が、この頃何かしきりと気にかかる。どうも何だか、いやに横風なつらをしているのだ」と。

 

 

2 蜘蛛を捕まえて、逃げるのが速い?

 

 「私がビンの栓をとった時、蜘蛛は、実際に、間髪を容れず、という素速さで脱出した。それは、スタートラインで号砲を待つ者ののみが有(も)つ素速さだった」と。

 

「私が閉じ込めた蜘蛛は、二度共偶然によって脱出しえた。来るか来ぬか判りもせぬ偶然を、静まり返って待ち続ける蜘蛛、機会をのがさぬその素速さには、反感めいたものを感じながらも、見事だと思わされる」と。

 

蜘蛛には目があるのだろうか、と思った。

 

 

3 蚤の心臓とかいう言葉を聞いたことがあるが、サーカスで使われるとは?

 

「蚤の曲芸という見世物、あの大夫の仕込み方を昔何かで読んだことがある。蚤を捕まえて、小さな丸い硝子玉に入れる。彼は得意な足で跳ね回る。だが、周囲は鉄壁だ。散々跳ねた末、もしかしたら跳ねるということは間違っていたのじゃないかと思いつく。試しにまた一つ跳ねて見る。やっぱり無駄だ、彼は諦めておとなしくなる。すると、仕込手である人間が、外から彼を脅かす。本能的に彼は跳ねる。駄目だ、逃げられない。人間がまた脅かす、跳ねる、無駄だという蚤の自覚。この繰り返しで、蚤は、どんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。そこで初めて芸を習い、舞台に立たされる」と。

 

 

4 蠅を三回払うと、寄り付かなくなる?

 

 

 

 

 

 「蠅について大発見をした。彼が頬にとまると、私は頬の肉を動かすか、首を一寸振るかして、これを追い立てる。飛び立った彼は、直ぐ同じところに戻ってくる。また追う。飛び立って、またとまる、これを三度繰り返すと、彼は諦めて、もう同じ場所には来ないのだ。これはどんな場合でも同じだ。三度追われると、すっぱり気を変えてしまう、というのが、どの蠅の癖でもあるらしい」と。

 

僕の経験でも、それは言えそうな気がする。食事時に蠅を三回払うと、あきらめるのかもしれない。

 

5 お茶目な尾崎一雄?

 

 「どうだ、エライだろう、おでこで蠅をつかまえるなんて、誰にだって出来やしない、空前絶後の事件かも知れないぞ」。

 

 

6 古本屋での商売の仕方とその対処

 

1 「あ、先日の随筆索引、あなたがお持ちになると直ぐk博士がお見えになって、残念がられていましたよ」

「へえ、そりゃ」

 店員のそういう言葉は、古本好きの客に

とっては、一番効果的なお世辞なのだ」と。

 

「君駄目だよ、大きな声で、あったあったなんて。あれじゃ、いきなり吹掛けられるに決まっている。欲しい本なら猶更、どうでもいいって顔をしてなきゃ。相手は商人だもの、こっちもその心得で居なきゃいけないんだよ。つまり、ああいう時は、ポーカー・フェイスに限るんだよ。

  昌三は笑った。肚では、たぶんそうだろう、と思っていた。人が悪いとか、上わ手とか云うのは、この際彼にとって悪口ではなかった、くすぐられている感じだった」と。(

 

この文章を読んで、感じたのは、昭和初期の古本屋は値札がはられていなかったのか、と思った。

 

7 素直という言葉に違和感?

 

「素直というのもやっぱり、この世の規約に対して忠実だというんじゃないでしょうか。あんたはね、御自分の本性、本来の、人間としての希望や欲求というものを、この世の規約にしばりつけることばかり考えていらっしゃるんじゃないの?だから、あなたの頭の働きというものは、御自分をしばるためにしか働いていないし、素直というのは規約や命令に対しての素直さなので、本当のあなたに対しては、反逆者と云っていいのじゃないかしら」と。

 

小学生の頃、先生から素直な子になれ、と言われたが、よく考えると、将来、会社に対して忠実な子供を育てることになったのではないか。

世に言う優等生はこの素直さを持たないと、出世しない、何とも堅苦しい社会よ。

 

8 作者は人間の笑いをよく見ている。

 

「医者は、人間を動物扱いするから嫌なんだ。しかも、勝手に裁断して、判ったような顔をしている。僕は、医者の自信ありげなニヤニヤ笑いを見ると、腹が立ってしかたがないんだ」憎々しげに云い放つのだった。

 

また、「あの時山下教授は、好人物が自分を一かどの悪人らしく見せようとするあの笑い、それが一層その人の好人物ぶりを現わすあの笑いをうかべていた」と。

 

笑いにもいろいろある。その時の雰囲気で感じ方が違ってくるのだろう。

 

9 書くとは?

 

「ぼくは、落ち付いて、ゆっくり書くつもりだ。大体、しゃべるよりも書く方が、考えを安定しやすいのではないか。

しゃべる場合は、しゃべる作業そのものに加速度みたいなものが加わって、ぼくがたやすく金切り声に陥るのではないかという懼れを感ずる」と。

 

僕は、しゃべると、思わぬことを言ってしまうことが多い。書きながら、考えるのはブログが最適ではないだろうか。

 

10 街行く人の顔を見ながら歩いてみよう

 

「いつかぼくには、街頭へ出ると先ず、他人の口もとをうかがう癖がついていました。

 医者の話では、日本には二千人に一人の割合で兎唇があるそうです。

・・・・

 「今日も一人見つけたよ」

外から帰ると、ぼくは、何より先にこう云うのです。

 

 「まあ、そう」

 妻にとって、これはいい土産なのです。ぼくらは、他人の不幸を喜びの種とするやましさなどは、すでにどこかへ置き忘れているのです。

 ただ、ぼくがわれながら現金だと思ったのは、以前は不具者のことなぞ一向気にも留めなかったくせに、茂樹が生まれると共に、鵜の目鷹の目というあんばいになったことです。そして、世には不具者がいかに多いかが判って、これはぼくにとって驚くに足る発見でした。

 先ずぼくの目につくのは、云うまでもなく兎唇で、これはまるで親の仇みたいに捜しているのだから当たり前ですが、その他の身体障害者も見逃しません。そして、ぼくが気にするのは、後天的障害者でなく、先天的それなのです。

 ぼくは、後天的な怪我だと思うと、さほど陰惨には感じられないのです。片足や片手の無い人を見ても、それが戦場か職場での怪我や病気によるのだとすれば、気の毒とは思っても、手の指が、生まれつき四本の人を見たときほどのショックは受けません。

 先天的な肉体の欠陥にだけつきまとう宿命的な暗さーぼくが特にそれに敏感になったのが、茂樹出生後なのはもちろんです」と。

 

人それぞれの経験で街の歩き方が変わるものだ、と思う。

例えば、今日は笑っている人に何人会えるかと、暗そうな人は何人かと、自分で数字を出して、歩くのもおもしろいのじゃないか、と思う。

 

11  今は人生たかが、80年少し、何とも哀れな存在よ。

 

「誰も彼も、どんなに威張ったって、五、六十年しか生きていないのだ、お互いに、自分の知らぬ間に、この世へほうり出され、否でも応でも、生きるだけは生きなければならぬあわれな生物なのだ、とぼくはは真剣に考えます。すると、非常に殊勝な気持ちになって、妻にやさしくしてやりたくなる」と。

 

人間はあっという間に、年をとって、死んでしまう。そこらにいる生物と同じ運命。でも、死があるから今を生きる、という気持ちもわいてくる。