ヴォネガット著 『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』
ヴォネガットは「とにかく仲間が欲しい。兄弟姉妹の愛情が欲しい。拡大した家族が欲しいという人がうようよいるんです」と言う。
ヴォネガットはがこう言ったのは、1973年だが、核家族の日本も同じではないか。
僕が街を歩いて、よく思う事は、独身向けのアパートがたくさんある。狭い空間には冷蔵庫から便所、風呂まで。さらに、テレビ、パソコン、音響機器、本など一杯。自分の居場所はほんの少しだけ。学校や会社から帰ると、ひとりテレビをつけ音楽を聴く。こういう住居は便利、快適だが、反対に、孤独はすごいだろう。
さて、本題のこの本の内容だが、
これはローズウォーター財閥の一人息子が家を出て、どこかの町に「なにかお力になれることは?」という店を作る。誰に言えないような貧しい人々の悩みを、辛抱強く聴くという小説。
そういう作業で、現在のアメリカにどんなに見棄てられた孤独な人が多いかを書いている。
上院議員である彼の父は、昔ながらのアメリカ気質をこう言う。
「貧乏人でも進取の気性があれば、泥沼から這い出せるぜ。これはいまから千年先でも、真理のはずだ」と。
すると、主人公の理解者の男が反論する。
「貧困は、脆(もろ)いと定評のあるアメリカ人の魂にとって、わりと軽い病気です。しかし、空(むな)しいという病気は、強い魂も弱い魂も、同じように冒(おか)し、例外なく命とりになる」と。
上院議員はアメリカの伝統的な考えで、積極的に努力して工夫すれば、この国は貧困から抜け出せる。貧困がなくなれば、不幸はないと、言う。
しかし、トラウトは、ヴォネガットの小説によく顔を出す変な作家だが、こう言う「貧困はまだ、軽い病気だ。むなしいという病気こそ命とりになる」と。
僕は、どうも、このトラウトの意見の方が正しく思う。
生き甲斐は、自分が存在していることは意味がある、自分は誰かに必要とされている、感じる時に味わうものだろう。
ヴォネガットはしかし、もう少し先まで見ていて、いずれ機械の進歩で、どんな人間も必要でなくなる時代が来ると考える。こういうふうな科白がある。
「いずれそのうち、ほとんどすべての男女が、品物や食料やサービスや多くの機械の生産者としても、また、経済学や工学、医学の実用的なアイデア原としても、価値を失う。だから、人間を人間だから大切にするという理由を見つけなければ、人間を抹殺した方がいい、ということになるんです」と。
人間が社会的に有用だから必要とされるというだけでは、その状態がなくなると、その人は「むなしさの病気」になる。
そうではなくて、「人間を、人間だから大切にするという理由と方法を見つけなければ・・・」
下手をすると、ヒットラーの人間抹殺の道を再度味わうことになる。
だから、僕はこう言いたい。「自分が存在していることは無意味ではない。自分は自分以外の人によって人間として必要とされている、と感じることが生甲斐なのだ」と。
ロシアのゴーリキイはトルストイの思い出の著書『追憶』の中で書いている。彼はある時、トルストイが海岸の岩の中に座っていたのを見る。トルストイがまるで、彼自身が自然の一部になったかのようで、波や岩と会話しているのではないかと。
ゴーリキイは「その時、私が感じたことは、言葉で言えない。心は喜びで満ち、胸迫って苦しかった。やがて、何もかもが幸福な思考の中に溶け合った」と感じたという。そして、ゴーリキイは思わず、心の中でこう叫ぶ。
「おれはこの地上にいて孤独ではない、この人間がいるかぎりは」と。
僕は昔、この言葉を読んだ時以来、これは人間が発した言葉のうちで、最も美しい言葉の一つと思っている。
ゴーリキイが老トルストイを見ながら何を感じたかは正確にはわからない。が、自然会話しているトルストイを見ていると、この人がいる限りは自分は完全に理解されている、自分の無能さ、欠点もすべて受け入れられている、理解したからこそ、この言葉が出たとしか思えない。
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