現代は、健康のために、何かと、米を食べるなとか、饅頭を食べるなという人が多いが。
この本を読むと、反対に、風流人になるためには、毎日、御飯や饅頭が食べるべきだ、と考えが変って来た。
神崎宣武著 『旬の日本文化』
1 現在、砂糖は嫌われるが、江戸時代から砂糖入りの饅頭が大人気?
「ぼた餅にしろ饅頭にしろ、餡を多用する菓子が普及するのは、江戸も中期以降。『守貞饅頭』には、昔の饅頭は采饅頭であり潮饅頭であった、といい、砂糖饅頭が流行るのは文化(1804―18年)以降である、とい記されている。
菓子博士の
木宗康氏は「砂糖を使用した菓子は徳川中期以降で、それ以前の味付けは味噌や塩が使われた」とある。
近年まで、「砂糖ぶるまい」という言葉があり、普段は砂糖を倹約して、客があった時だけそれをふんだんに使う、分限者の見栄をいったものである。
庶民が挙って砂糖をふんだんに使えるようになったのは、台湾統治がなった明治後期からである。明治33年(1900)に成立した台湾製糖は、日本を代表する企業となった。日本の台湾統治は砂糖増産にあった。
江戸後期から明治期にかけて、飴菓子は、日本を代表する菓子となる。
特に、ぼた餅が仏壇への供え物となったのは、明治政府による神道の統一があり、神棚への供え物はすでに定常化していたからであろう。
一般には、春に「ぼた餅」、秋に「おほぎ」と呼び分ける。
ぼた餅は春の牡丹にちなんだ「牡丹餅」がなまったもの。対して、おはぎは、萩の花にちなんだ呼称である」と。
散歩がてらに、牡丹の花や萩の花を見て、饅頭になるのか、と想像すると何となく、食べてくれ、と叫んでいるように思える。
2 日本人は正月を出来るだけ長く続けたい。大好き。農家の人は正月を理由にして休めるから?
「一月十五日は小正月という。元旦を大正月と呼ぶのに対しての小正月である。
新月の一日は朔(ついたち)である。つまり、月絶ちの日である。満月の十五日を望(もち)と呼んだ。言い換えれば、月盛りの日である。
小正月も正月祝いとされた。古く遡ると、一年の第一の望(もち)こそが正月のはじめとして重視された。
二十日は二十日正月、あるいは麦飯正月という。二十日になると、正月の餅を食べつくし麦飯を食べるからだろう。
二十五日をしまい正月、三十日を晦日正月、二月一日を一日(ひとえ)正月と呼ぶ。
ほぼ、一か月にわたり、何かと理由をつけては仕事を休む。農村ではその傾向が強い。正月とは農民にとっての長期休暇だった」と。
正月と聞くと、遊べるイメージが僕にはある。
一日のうち、わずかな時間でも正月気分を味わって、楽しいことをしたい。
3 桜前線はもう始まっているが、かつては同時に、田植前線があった?
「「田植え前線」が新聞に載らなくなった。六月になると、載った。
ほぼ五十日前には、「桜前線」。桜前線は、現在も続いている。花見はすたれず、田植えはすたれた。
田植えの機械化で、共同作業が後退、稲の品種改良によって田植えの時期がまちまちになったことが原因か。
じつは、桜前線と田植前線は、ほぼ同じカーブを描きながら北上した。
山に咲く花を確かめ、その花の下で山のカミを祀って祝宴を催す。豊作の予祝行事であった。それが花見の源流であろう」と。
今、一年で最も、外へ出やすい季節である。
戦前あたりまで、「日のお伴」とか「日天さまのお伴」という行事があった。春分の日に一日外へ出て太陽を拝んで歩く。もちろん、休みながら、飲食を楽しみながら、こうすると身体が丈夫になる、という伝承があったという。
桜の花を見ながら、弁当や饅頭を持って、あちこち放浪するのは格別に風流がある、と思う。
そして、桜の語源を考えながら散策してみては。
「サクラの語意は、「さ」と「くら」。「さ」は、さわやかですがすがしいの意の接頭語。「くら」は、大事なものを置いたり乗せたりする装置。サオトメなどと同様にサに重きがあり、神々がそこの霊を宿す、と解せるのだ」と。
また、桜が散る瞬間も美しい。
日本人は花火好きといえるだろう。それは、ひとつには、サクラと同様に、花火の美しさと散り際の見事さが日本人の感性に合致したから、と言えるかもしれない。
4 海水浴で泳がずに本を読んで、精神的貴族になっては。
「海水温浴場がはじめて設置されるのは、大磯海岸で、1885年であった。陸軍軍医の肝いりで、健康増進のためだった。
ヨーロッパでは、海水浴は貴族達の転地療養として行われた。波打ち際に馬車を止め、幌をあげて潮風を浴びるのが主で、海水に浸るのが目的ではなかった。
学校教育の中では遠泳が重視され、海水浴の大衆化は、軍事教練や学校教育の中から始まった」と。
我々日本人は、海に入ると泳ぎたがる。ビーチで、ゆっくり昼寝をする人は少ない。プールでも同じこと。プールサイドで読書をする人は少ない。外国人はそれを奇異に感じるようだ。「働きバチ日本人」の印象を重ねる人もいる。
西欧的な海辺でのリゾート保養は、どうも馴染みが薄いようだ。
少し人とずれた事をすることに面白みを感じる習慣をつけたい。
砂浜での読書とか、今、桜見の季節なので、木の下で風の心地よさを感じながら、昼寝とか。精神的貴族になれるかも。
5 もうすぐ、運動会も始まるが、綱引きが行われるわけは?
「運動会の始まりは、明治七年(1874年)に東京築地の海軍兵学寮で行われた「競闘遊戯会」であった。
1900年に、小学校令が改正となり、全国の学校で運動場を設置が義務付けられた。それが運動会の発達させた。
綱引きは、農村の神事として行われていた。東日本では、小正月行事として。また、西日本では、おもに盆行事として。現在に伝わる綱引き行事としては、沖縄や奄美の島々でのそれが勇壮なものとして知られる。
綱引きは、年占の意味があった。引き勝った方の集落がその年の豊作を当てる、としたのである。
若狭地方では、農村と漁村が分かれて綱引きをした。一方が勝てば、豊作。一方が勝てば、豊漁。
学校の運動場で行われたので、運動場は集落の広場である、という認識が共有された」と。
6 丑の日とウナギを結び付けたのは、江戸中期の平賀源内? それとも、太田南畝か?
7 ウナギは万葉時代から食べられていた
8 地貌季語という言葉があるとは
9 日本の伝統のイモは、サトイモだった
10 謝罪する時、「この失敗をカテにして」という。
このカテとは。糧飯で、米に、ムギ、ヒエ、アワ、などの雑穀やイモ、ダイコンなどの根菜を焚きこんで食べていた。これを糧飯という。
11 霞が関とは?
「霞の関」は見立ての一種である。霞でもやって通行しにくいことを関所に見立てたのである。
東京の霞が関は、庶民にとって、どうしても見通しの悪いところである。
12 ぼた餅とおはぎの違いは?
おはぎは、別名「隣知らず」という。餅だが、臼でつかない。ペッタン、ペッタンという餅つきの音が隣にも聞こえなので、そう令名された。
おはぎはぼた餅ともいう。春に咲く牡丹の花にちなんで、ぼたん餅と呼ぶが、転訛したもの。正確には春のそれをぼた餅、秋のそれをおはぎと呼び分けてしかるべきなのだ。
13 昔は春は桜の花見で、秋は菊の花見があった?
キクは、サクラとともに日本を代表する花である。現在は、春のサクラの花見が特に盛んだが、かつては秋の菊見も盛んだった。
花見つつ人まつ時は白妙の 袖かとのみぞあやまたれける
これは紀友則の歌で、古今和歌集にある。白菊を白妙の袖と見間違えた、と。
キクの栽培も鑑賞も古くから行われた。
特に、江戸時代の江戸で菊見が流行った。鉢植えのキクを並べて展示するだけでなく、菊人形を展示することも流行った。
菊人形は日本だけで、花で人形をつくる、そのこと自体が世界に類を見ない。
14 紅葉狩りは平安貴族が最初で、庶民は江戸時代から?
紅葉狩りとは、もとは能や義太夫、常磐津、長唄などでつかわれた言葉で、行楽の発達も、そうした芸能の普及と関係してのことであろう。
だから、貴族は平安期から山野で紅葉狩りをしたが、庶民は、江戸時代中期から楽しみになった。
紅葉の名所は江戸では、東叡山(上野)や滝野川などが歌に詠まれている。
15 相撲は豊作物ができるかどうかを占う?
平安時代に、宮中での相撲が定例化した。初秋の行事として相撲節会が行われた。諸国から力士を集め、東西に分けて競わせた。その結果で、豊作物の豊凶を占った。ここで、相撲が神事性を帯びて来る。
相撲神事が顕著なのは、奈良盆地だろう。神社の秋まつりに相撲が奉納される。夜市布(やぎゆう)神社など、奈良市で六ヶ所確認されている。
奈良豆比古(ならずひこ)神社のそれは、本殿のまえで神主の「ハッケヨイ・ノコッタ」の掛け声で、二人がサカキを頭に拝殿のぐるりを行き違いに「ホーオイ」という掛け声を交互に交わしながら三周まわる。「ホーオイ」は、「穂が多い」をあらわすといわれ、五穀豊穣を祈願しての奉納であることが
16 現在は無礼講はあるが、礼講は死語になった?
神人が共食の直会は、礼講の酒である。カミから分配される酒で、酔うための酒ではない。
礼講を済ませて、しかるのちに、無礼講に移る。ここでは、酒の質を問わない。燗酒でもよい。酔って楽しむための酒である。
このごろ、礼講あ死語となっている。礼講あっての無礼講で、無礼講だけが残った。
乾杯の一言ですませる。乾杯の習俗は、明治後期、軍隊で生じたもので、もとよりグラスを用いた立食の飲み方だった。乾杯が直会に変容したかたち、といえなくもない。
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