樋口清之 『「温故知新」と「一所懸命」』を読んで
この本を読んで、食べたくなったもの(1)糸引き納豆 大徳寺納豆 (2)ゴボウ (3)梅 (4)唐辛子
今後行きたい場所、(1)奈良の正暦寺、 (2)京都の西本願寺の飛雲閣
今後、さらに読みたくなった本、エドガー・モースの本
知的啓発を受けた一冊だった。
以下、ぼくがおもしろいと思った箇所をまとめた。
1 著者の樋口氏は旧制中学3年の時、奈良高市郡中曽司(なかぞうし)遺跡で弥生土器に、モグラの圧痕を発見する。それを論文に発表すると、当時の人類学権威の鳥居龍蔵に絶賛され、彼の講演を著者が聞き行くと、「奈良県には樋口清之というご老人が遺跡の立派な研究をされている」というのを聞いて驚いた、という。
講演が終わり、著者の樋口氏が鳥居先生に挨拶へ行くと、あまりにも若いので驚いたらしい。
その時、鳥居先生から「しっかり勉強なさい」と声を掛けられ、その後、茶者は考古学の道を決意したという。
2 日本の梅雨はチベット高原の雪の量に左右される。
ハンチントンという学者は「気候が、人間の作業能率や精神活動まで左右する」という。「毎日の気温変化が大きければ大きいほど能率がよく、小さいと落ちる。また、暑すぎても寒すぎても落ちる」故に、「中緯度地方に位置すると、高度な文明地域に符合する」日本は中緯度にピタリと当てはまる。
だから、日本人は常に能率向上を求める、という。
2 日本の古代史では、神話の中で、稲作を作る神は優位で、異民族とされる土蜘蛛、隼人、蝦夷、佐伯、国栖などは、稲作に関係ない名前だった。
3 1192年に、日本は全く新しい遺伝子が体内に生じた。今だに、日本人を支配している。
それは、「一所懸命」という遺伝子であった。
一所懸命とは自分の所有地を命がけで守ることで、鎌倉幕府が土地所有の権利を認めたことで始まった。
4 鎌倉幕府は糞尿(ふんにょう)政権だった。
鎌倉時代から日本は臭くなる。耕地に人糞肥料を利用した。
イエズス会宣教師もこの臭いを嫌がった。
しかし、化学肥料としては世界最高の発明だった。
5 江戸時代から一日三食が始まった
江戸、京都、大坂の大都市ではよくついた粳米(うるちまい)の白米を食べ始めた。
江戸以前は、玄米か半つき米で栄養価が高かった。だから、一日二食で足りた。
徳川家康がコメづかい経済を開始したので、食べ心地の良い白米を常食とした。
玄米にはビタミンB、E、必須アミノ酸、ミネラルが含まれるが、白米にはない。しかし、白米のうまさに負けてしまい、一日三食になってしまった。
しかし、白米ばかり食べるので、「江戸わずらい」になった。脚気である。
それで、「脚気になれば、故郷の田舎へ帰れ」と。農村の貧乏だから、玄米や麦飯で栄養解消されると、昔の人は栄養学の知識がないが、実践でよくわかっていた。
6 買い物ツアーが現代版の遣唐使だ
日本には他国に影響を与える大思想が生まれない。海外から何でも採り入れるが、原理・原則まで採用しない。
菅原道真は894年に遣唐使派遣を中止する。採用可能な文化、技術、制度をある程度取り入れると、もういい、ということになる。
現代、日本の若者はアメリカに留学したがらない、という。平安時代からの伝統が蘇ったということか。
9 日本人はなぜ風呂が好きなのか
温泉が多かったほかに、日本は多湿だったので、水浴風習が古くからあった。信仰で「みそぎ」は罪や穢れを払うと考えていた。病気は本人が穢れているから起きると思われ、水浴で病気を追い出せると。
奈良時代に仏教が修行や治療で水蒸気浴がはやる。これが、「風呂」の始まりで、光明皇后は多くの病者を入浴させた。
寺院は病者が多く集まる。施浴が始まる。
ほんの少し前まで、街中に銭湯があった。そこの建物の入り口の屋根は、寺院の入り口に似ていたのは、それらの名残だった。
10 豊臣秀吉と淀君は裸で風呂に入っていた。
京都西本願寺の飛雲閣に黄鶴台と呼ばれる、浴室がある。元は京都の聚落第から移された。
現在の蒸し風呂サウナ式の浴室で、生活を楽しんでいた。
11 江戸時代の徳川将軍の寿命が短いのは食べ物の種類が少なかったから
現代、東京では韓国料理、中国料理、フランス料理、スペイン料理、タイ料理など、世界中の料理が食べられる。おそらく、こんな国は少ないはずだ。
日本人は「何でも食べてしまう」悪食だと、著者いはいう。
目に見える物、手に触れる物を食べて試みるのを悪食という。勇気ある先人は、多数なくなっただろう。しかし、毒魚やキノコの害で死者を出した事を記憶しながら、後世の日本人に伝えた。
悪食は身分の低い人が多かった。その反対に高い樹族は食べ物が少ない。極端なのは、江戸時代後半の将軍で、「お家のしきたり」という理由で、一一代将軍の家斉のように、毎日、ショウガばかり食べていた、という。
「目黒のサンマ」は下賤の者が食べるという理由で、将軍は食べるのが禁止だった。身分の低い者は山菜、魚介類、など何でもお構いなし。
だから、明治維新は農民や武士の下層から生まれた可能性が強い。
12 日本人の納豆は糸引きが主流だった
古来日本は静岡の富士川から新潟の信濃川に至るフォッサマグナ線を軸に納豆は二種類あった。
糸引き納豆はフォッサマグナ線の東側で、西側では寺納豆が大徳寺納豆だった。
現在、「関西人は納豆を食べない」と言うが、関西では発達しなかった糸引き納豆を指す。
13 天武天皇以降、江戸時代まで殺生禁止で動物の肉は食べること禁止だった
縄文時代は鳥、ウサギ、イノシシ、シカ、ウマなど食べていた。今でいう糖質制限か。
しかし、奈良時代に仏教が入り、殺生禁止で肉を食べてはいけなかった。動物淡泊がないため、平安貴族はあんなになよのよしていたのではないか。
14 かつて日本は米正月と芋正月があり、一年を二倍生きた
秋の旧暦8月15日を芋正月という。だから、一月の正月とあわせ二回あった。米正月も同様。
だから、正月は二回来るので、一年を二度に計算した。
これにより、古代人は寿命が普通より長くなった。
神武が180歳と言われているが、実際はその半分で90歳と思われる。神武は別格として、大昔の天皇は平均して120歳。現在でいえば、60歳相当になる。
15 酒をなぜ「サケ」と言うのか
飲むと気分が「サカエる」から「サカエ」が「サケ」になったという説がある。
16 ゴボウで処刑されるとは
第二次大戦中、捕虜収容所のアメリカ人にゴボウを食べさせたということで、「捕虜虐待」の罪で処刑された日本人がいた。
ゴボウを野菜の一種と考えるのは日本だけ。中国はゴボウを食用でなく、薬草として使う。
欧米人は見たこともなく、特にアメリカ人はバードックと言って、全く通用しない。
ゴボウとわさびは日本特有の野菜だった。
実際、ゴボウには有機鉄分が強壮造血に効き目あり。
アルギニン、イスリンなど臓器に刺激を与え、強壮作用になる。
漢方としてのゴボウの実力は絶大で、目を明るくし、中風を防ぎ、利尿と月経を順調にする。歯痛、皮膚病にも卓効あり。
17 唐辛子の実力
唐辛子が日本に来たのは、足利時代で、最初、薬品として。
唐辛子はビタミンAのかたまり。実は、うどんやそばにはビタミンAはゼロ。唐辛子はビタミンAを補う。昔の人に脱帽。
18 「伊達くらべ」とは
江戸時代、大奥の女中たちは、大坂の陣が終わり(1615年)、世の中平和になると、朝食をとりながら、朝シャンをした。
伊達くらべの伊達とは伊達政宗が美男で、桃山文化の派手さを好んだので、豪華絢爛のことを「伊達」といった。
19 ビアスは縄文時代のリバイバルだった
日本では6000年前から、耳たぶに穴をあけて飾り付けをした。ハイカラでもなく、一旦中止になったことを、西洋の物真似をしたが、縄文時代の再現にすぎない。
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