トルストイ著 『文読む月日』
「人々が夢中になって騒ぐもの、それを手に入れるために躍起になって奔走するものは、彼らになんの幸福ももたらさない。奔走している間は、その渇望するものの中に自分らの幸福があると思っているけれども、それが手に入るや否や、彼らは再びそわそわし始め、まだ手に入れていないものを欲しがり、人が持っていればうらやましがる。
心の平安は、いたずらなる欲望に充足によって生じるものではなく、反対にそうした欲望の棄却によって生じるものである。もしもそれが真実であることを確かめたいなら、今日まで注いで来た努力の半分でいいから、それらの欲望からの脱却に注いでみるがいい。すると、君はまもなく、そのことではるかに多くの平安と幸福を獲得できることを発見しよう」と。
トルストイの晩年に読書生活から『文読む月日』の中で、エピクテータスの大事と思える言葉を書きとめたものだ。トルストイの時代からこういう傾向があったのだな、とわかる。さらに、遠いギリシャ時代も、当時からの人間の傾向であったようだ。人の性(さが)は現代も大昔も変らないというべきか。
さらに、エーリッヒ・フロムという人が書いている。『生きるということ』の中に
「今日では、保存ではなく、消費が強調され、買い物は使い捨てとなった。買った物が車であれ、服であれ、小道具であれ、しばらく使うと飽きてしまい、古いものを処分し、最新型を買いたくなる。取得ー一時的所有と使用ー放棄ー新たな取得が消費者の買い物の悪循環を構成している。 今日の標語は「新しいものは美しい」となるのだろう」とも書いてある。
現在日本にぴったり当てはまるではないか。新しいものこそ最もすぐれていると、広告は叫んでいる。それに遅れることを恥であるかのように、競って、情報を入手する。
電車に乗れば、広告のオンパレード。見たくなくても、自然と目に入るようになっている。
髪型から、服装、靴、持ち物、流行語、しゃべり方、飲食物、行く店まで、流行に遅れまいと、変化に敏感になる。
何とかアイスクリームの店がテレビで放映されると、翌日になると、その店の前は行列になる。
健康食もテレビで流されると、翌日にはスーパーでは売り切れとなる。
何だか気味悪いほど画一化されている。
日本は共産主義国ではないが、精神的には、お上(かみ)や企業にうまく操られている。
どうやら、情報に敏感であればあるほど、外の情報に振り回され自分を見失うだけではないか。
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