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幸福とは

2019-02-06 14:58:42 | エセー

 内村鑑三著作全集 20

 

 

1 内村鑑三の読書観とは?

 

 「読書の他、これぞという道楽なければなり。読書と散歩、書籍を読みし事を歩きながら考える事、これ余をしてこの世に存在せしむる唯一の快楽なりとす」と。

 

内村鑑三もそうだが、漱石も散歩を好んだ。本を読んで、じっとしているのはもったいない。すぐに、外の景色を見ながら、考えよう。

また、

  「余の終生の希望は、閑散の地において妨害なしに書を読まん事なり。

 

 Give  me  a  nook  and  a  good  book.

 余に隠遁地と良き書を与えよ。これ実に余の熱望の声なり。余は死する前に一年たりともかくのごときの極楽的境遇を味わいたきものなり」と。

 

 今や、隠遁地は自分の思い次第で、持てると思う。日々、公園を歩いて、樹々の色合いも変る。それを感じるために散歩するのもいい。

 

一方、良き書というのは、少しの油断で見つけられずに一日が終わってしまう。

インターネットをし出すと、メールを見たり、どうでもいい情報が大量に入って来る。時間泥棒の見本みたいだ。それらに時間を盗まれてしまう。そして、十年、二十年が過ぎ、死の間近になって、今までの人生は何だったのか、と後悔だけはしたくない。

 

 

 「余はなるべきだけ眼力を節用し、貴重なる視力と時間を、害多くして益少なき新聞雑誌等の濫読に消費することなく、未来永遠にまで余を離れざる智識を世に供する大著述の熟読に従事せんと期しつつあるなり。

 

 豊太閤の寵臣、曽呂利新左衛門は言うた、世に最も多きものは人であって、また最も少なき者は人であると。そのごとく、世に最も多きものは書物であって、また最も少なき物は書物であると言うことができる。世に善人の少ないように、善き書物は少ない。しかして善人に会うは大なる幸運であるがごとくに、善き書物に接するは大なる幸福である。善き書物は実に稀なるものである。百冊の中にまたは千冊の中に一冊の他、見あたりにくいのである。

 

  余の読書の趣味は随分広くあると思う。エドマンバークにおけるがごとく、種々の読書熱が説きを替えて来る。ある時は詩歌熱、ある時は歴史熱、ある時は科学熱、ある時は考古学熱が来る。

しかし常に多少存在する熱は聖書熱である。

 

 ただかつて一回も来ることのないのは小説熱と法学熱である。余は生まれながら小説とてはただ一冊読んだだけである。それは有名なる『アンクル・トムス・ケビン』の著者ストウ夫人の筆に成れる「わが妻とわれ」と題する英文小説である。

 

 余にとりては、小説は虚偽であるからおもしろくない。法律は情がないからつまらない。余の脳と心とは、小説と法律とにはどうしても向かない」と。

 

内村は新聞も時間の無駄、と考えていた。本当の良書は、最低でも百冊を読まないと、出会わないという。内村の読書歴をみると、かなり、英文を読み、古典を読んでいる。それでも、そういう状況だ。

 

 現在では、千冊読まないと、出てこないのではないか。

やはり、以外なのは、小説をかなり嫌っていたという事。虚偽を嫌う内村らしい。また、法律は無情だから、嫌だと。

 

2 内村の英語の勉強法とは?

 

「単語一々の詮索よりもむしろグループス内容の理解を先にし、また形式的文法の規則を覚えるよりも、英語そのものをみずから使ってみてこれを理解し、そしてその理解を新しい英文の解釈に応用させるというスコット氏のメソッドは、私たちに対してきわめて有効であった。かように、読んでは使い、使っては読むという流儀で、両面相補って行くという教授法に対して、私は今もなお大いに感謝している」と。

 

漱石の文法重視の英語勉強法とは違うようだ。

要するに、名文を読んで、声に出す。その繰り返して、体で覚えることだろうか?

 

 

3 平凡が幸福である?

 

「偉人リンカンは言うには、

 

 神は最も多く平凡の人を愛したもう。しからざれば、彼はかくも多く平凡の人を造りたまわざりしならん、と。

平凡の人たるは決して小なることではない。これは億兆と運命を共にすることであって、神の特殊の恩恵を味わうことである。

 しかるを、この事を忘れて、ただひたすら非凡の人たらんと欲し、競争また競争、世界第一の人とならんと欲するが故に、我らは無益に心を労するのである。

 

 見たまえ、今のいわゆる学士または博士なる者を。彼らは高等の奴隷にすぎない。高等教育を受けしがゆえに、独り立つことの出来ない人となった。彼らは、政府か、会社か、富豪に頼らざれば、単独でこの世に立つことはできない。彼らのは彼らを縛る強きなわである。彼らは、これあるがために、信ずることを語るあたわず、思うことをもなすあたわず、黙し忍びてその地位を保つのである」と。

 

毎日、平々凡々と暮らすと、これでいいのか、と思う

人はほとんど、凡人にできているようになっているが、すぐに、周りの情報に左右され、思っていない事をすることがある。

 

 

大学を出たから、出世しなければならないとか、今は課長だから、来年は部長にならなければならないとか、世間の取決めに従うと、思わぬ失墜に出会う。

 

もし、神がいるとするなら、人間は何と無駄な競争をして、日々苦しんでいることよ、と憐れむだろう。

 

中島義道氏の言うような、半隠遁生活もなかなかなものだと思ったが、内村は隠遁は否定する。

 

そして、  

 「労働は決して、労苦ではありません。労働は快楽の最も大なるものであります。われに従属する者を養うことであります。しかるにこの快楽を与えずして、他に飲酒の快楽であるとか、観劇の快楽であるとか、懶惰な快楽であるとか、何の益を供するをもって、これが孝であり愛であるといのであります。

 

 労働は憂苦を忘れさせます。労働によって、貧者は貧の憂苦を忘れ、老人は老の憂苦を忘れるのであります。しかるにこの忘憂剤を持たない者は、何でも、自分の不平の原因を他に嫁そうといたします。

 

 日が出ても労働の希望がなく、日が入っても労働の収得なく、ただ、目的なしに日を送るくらい、そんなつらいことはありません」と。

 

内村の言う労働とはどうやら、農業を重視していたのではないか。

 

 

4 仕事とは?

 

「ためる金とたまる金との間に多くの差異があります。わずかに「め」と「ま」との差異でありますが、しかしその間に天地の差があります。

 

 世間に対して義理を欠き、雇い人に対しては慈悲を欠き、わが身の自由、修養をまで欠いてためた金であります。

 それはためたのではなく、盗んだのであります。

金をためたとは申すものの、実は災害をわれとわが家と積んだのであります。

 

 これに反して、たまった金は自然にたまった金であります。為すべき事をしてたまった金であります。これは正直なる労働の報酬として、天がくだしたもうたものであります。受けて何ら危険もないものであります。そうして天は必ず正直なる労働に報います。

 

 私どもは金をためんとあせるべきではありません。働いて、天が恵みをくだしたまうその時を待つべきであります。

 

 

  今の人のたいていは、商売は戦争の一種であるように思い、機に乗じ、計略をめぐらし、こすく、すばしこく出でなければ成功は望めないように思えております。しかし、これは大なる間違いであります。

 

 商売は正業であります。戦争ではありません。戦争は他を倒して成功するものであります。

 

 商売は、他を益しておのれも成功するのであります。害を他人に加えざればおのれは成功するあたわざるような、そんな事業には決して従事すべきではありません。

 

 いわゆる「商戦」と称して、他を突き倒し、その失敗に乗じて、おのれの利益を収めんとしまする。実に人は鬼であります。そうして多くの商売人は鬼であります。かかる人々に、永久の成功と幸福との来たりようはずがありません。

 

 商売成功の秘訣は、志士人人の心をもってこの業に従事することであります。

 

 米国のリンカーンの申したように、

 

 何びとに対しても敵意をはさむことなく、万人に対して善意をいだいて

 

この正業に従事することであります。それで成功が来ないものならば、成功を求めません。しかしそれで成功の来ないはずはないと信じます。

 

 

 成功の秘訣

 

 ・ 自己にたよるべし。他人に頼るべからず。

 

 ・ 急ぐべからず。自動車の如きも、なるべく徐行すべし。

 

 

 ・成功本位の米国主義にならうべからず。誠実本位の日本主義に則(のっと)るべし。

 

 ・濫費は罪悪なりと知るべし。

 

 ・ よく天の命を聞いて行うべし。みずからおのが運命を作らんと欲すべからず。

 

 ・ 誠実によりて得たる信用は最大の財産なりと知るべし。

 

 ・ 清潔、整頓、堅実を主とすべし。

 

  人もし全世界を得るとも、その霊魂を失わば、何の益あらんや。 人生の目的は金銭

 

を得るにあらず。品性を完成するにあり

 

 経済学者は言う、生産は労苦なりと。されどもキリスト信者は言う、労働は快楽なりと。世に造るにまさるの快楽はない。米を作るの快楽、麦を作るの快楽、野菜を作るの快楽、真正の農民は知っている。農業は大なる快楽であることを。

 

 機械と作るの快楽、衣服を作るの快楽、家屋を作るの快楽、真正の工人は知っている、工事は大なる快楽であることを。

 

 文を作るの快楽、書を著すの快楽、雑誌を編集するの快楽、真正の文士は知っている、執筆は大なる快楽であることを。

 

教授であることの快楽、説教の快楽、伝道の快楽、天下何ものか人物養成、霊救済にまさるの快楽あらんやである。造ることはすべて快楽である。

極上の快楽である。この快楽を知らない者は人生を知らない。造って、造って、造り続けて、人生の限りなき快楽をさとることができるのである。

 

 神の快楽たる造ることの快楽、これが信者の快楽である。物を作ること、思想を産むこと、霊魂を救うこと、これが信者の娯楽である。この娯楽ありて、他の娯楽もいらない。旅行の娯楽もいらない。世人の言う娯楽にして、物を作るにまさるの娯楽はない。

 

 さらば作らんかな。働かんかな。産ぜんかなである。あるいは台所において、あるいは工場において、あるいは机に対して働かんかな。あるいは手をもってして、あるいは口をもってして、あるいは脳をもってして作らんかなである。

 

 造物主の子供は物を造るをもって楽しみとする。物の大小、尊卑を問わない。造るのが名誉であって、また快楽である。造らんかな、しかり、造らんかな。」と

 

これを読んで、

物を造ることが、大いなる幸福への近道だとわかる。日々、ブログを更新することもその一種と思いたい。

 

新聞や電車の広告に商戦という言葉を何度も見たことを思い出した。

よく考えると、商売で戦争するとは相手を殺す事で、本当に恐ろしい言葉だ。

 

溜まる金とは、どういうことか。自然に働いて溜まることのできるのは、農業や漁業などしかないのではないか。

 

溜める金は相手を出し抜く意図が裏に潜んでいる。

 

今は、何でも、アメリカを手本にして、ビジネスを始める。

第二次大戦後、日本の企業は家族主義で、年功序列だった。今や崩壊寸前である。だから、誠実さを忘れてしまった。

戦後の日本の社会に後戻りしていいのではないか。

 

グローバリズムは日本には合わないように思う。

こんなに、多くの中国人や、韓国人、他の国々の人々が来日来たのは、日本歴史始まって以来のことではないか。

犯罪率もかつてと比べ、増加しており、殺し方もえげつない。ばらばら殺人を平気でする外国人がいる。

 

 

5 主義は持つべきではない?

 

「今や雑誌を発行せんと欲する者は必ずまずその主義を問われる。いわく世界主義なるか、あるいは国家主義なるか、あるいは平民主義なるか、あるいは君主主義なるかと。主義の、新聞雑誌に必要なるは、商売に看板の必要なるがごとし。

 ゆえに、吾人に向いて問わんとす。なんじは何主義かと。

 

 吾主義?

吾人の主義は正直なるにあり。核心ありのままを語るにあり。吾人はさらに主義なきをもって答えんとす」と。

 

現代も、右翼なら正論、ボイス、ウィル、ハナダ、等の雑誌を読み、リベラルなら、文芸春秋、中央公論など、読めという。

しかし、そこの雑誌にはいつも同じ顔触れが並んでいる。そして、右翼は原発に反対しなければならないとか、リベラルなら、フェミニズムに賛成でなければならないとか、勝手な思い込みがある。

 

ぼくは、左翼であっても、原発は反対だと言えたり、右翼であっても、フェミニズムは賛成だと言える空気が日本にはないと、思う。

 

やはり、主義を持つと、「―は、何々だ」と断定する人が多い。これは、大きな誤りだと思う。