2050年、人間は「不死身」に=脳の中身をPC保存 (時事通信) - goo ニュース
間に合わないな。僕が生きている間には。
でも、記憶媒体が破損したら、それでおしまい。
その頃は記憶媒体もさらに小型化、大容量化が進み。バックアップをあちらこちらに取っておけるようになるか。
バックアップが別のハード上で動作すると、自分が複数存在することに。
しかも、それぞれが違う人生体験をする事ができる。
記憶媒体の修正や、未体験の記憶をコピーすれば。
データを書き換えてまさに洗脳も可能。
誰かのSFにあったような話だ。
新たな人物を作り出すこともできるか。
文章で自分のことを詳しく残しておければ、その人物のシミュレーションもできる。
そうか、僕の記憶を保存できる時代には間に合わないとしても、「僕について」という、このブログをかなり詳細に残しておければ、誰かが「僕」をコンピュータ上で再現してくれることも可能なのか。
ふふふっ。
間に合わないな。僕が生きている間には。
でも、記憶媒体が破損したら、それでおしまい。
その頃は記憶媒体もさらに小型化、大容量化が進み。バックアップをあちらこちらに取っておけるようになるか。
バックアップが別のハード上で動作すると、自分が複数存在することに。
しかも、それぞれが違う人生体験をする事ができる。
記憶媒体の修正や、未体験の記憶をコピーすれば。
データを書き換えてまさに洗脳も可能。
誰かのSFにあったような話だ。
新たな人物を作り出すこともできるか。
文章で自分のことを詳しく残しておければ、その人物のシミュレーションもできる。
そうか、僕の記憶を保存できる時代には間に合わないとしても、「僕について」という、このブログをかなり詳細に残しておければ、誰かが「僕」をコンピュータ上で再現してくれることも可能なのか。
ふふふっ。
PCで再現する ”自分” は、自分にとっては来世だね。今の自分自身じゃない。
他人にとっては、区別がつかないだろうけど。
やっぱり、生まれ変わるの やぁーめた。
わたしはね、もしも輪廻があったとしても、今世で輪廻をやめようと思ってるんだ。
20年前ぐらいにそう決めたの♪
生まれ変わる気はありません!
あ・もうひとつ決めたこと。
余命告知はしてほしくないってことね。
人に言ったら驚かれたよ。
「野崎は癌の告知も余命の告知も望むと思っていた」
ってね。
知りたくはないよ、どうせそれ、推定(予想)だもの。
天気予報なら外れてもいいし予定を立てなきゃ困るときは予報も知るけどさ、自分の余命なんか言った医者には食ってかかるぞーっ!
「あと一年です」
「あと一年も生きることが出来るんだね?絶対だね?明日交通事故で死ぬことはないんだね?!」
でも、DNAには自分の遺伝子が含まれている訳で、子供にコピーされている。生まれてからの人生は違うけれども、永遠と受け継がれる。ある意味、生まれ変わるってそう言うことなのかも。結局生まれ変わったら、今の自分ではない訳でしょ。ってことは自分の遺伝子を持った子供は、生まれ変わりですよね。たぶん。
ので、宗教的な考え方については そんじょそこらのエセ宗教家には負けない自負を持っておりますが
(わたしが一番苦労したのは、カネでも色でもなく思想。すでに克服済み)
ある宗教ではね、親は前世の姿、子は来世の姿と言います。
悪い考え方ではないと思いますよ。
またある信仰(宗教ではなく、信仰/シャマニズムの進化したもの)では、知的障害のある子供は海の神様が遣わした宝物で、くじらの生まれ変わりだといいます。
これは、C.W.ニコル著、勇魚(いさな)の舞台となった鯨漁で栄えた港町、四国のおはなしです。
だから障害のある子供を粗末にすると鯨に祟られる(鯨たちは、自分たちの化身として知恵遅れの子供を人間界に遣わすから)として、とても大事にしたそうです。
それに似た文学作品に、赤いろうそくと人魚、という悲しいおはなしがあります。
はじめから人魚(人間ではない、人間にはなれない妖怪)と知ってその子を育てる話ですが、裕福になった養育父母は町から来た商人の説得に負け、人魚を売り飛ばす決心をします。
それまで優しかった養父母は、商人と取り交わした契約金に目がくらんで人魚姫の
「ここにいつまでも置いてください」
という懇願に無視しました。
人魚は最後の日々を養父母のもとで暮らし、最後の日まで一心に手内職のろうそくづくりに励みました。
一本でも多く、と思ったので、絵ろうそくを、全部赤で塗ってしまいました。
人魚の作ったろうそくの灯明が岬の神社にあがっていると海の神様が配慮してくれるのか時化にならなかったのです。
商人が人魚を連れて見せ物小屋の踊り子にするため、契約金を支払って養父母から人魚を買い取り船で都会に(おそらく大阪)連れて行こうとした時、大きな嵐が起り、船は沈んでしまいました。
人魚の海の母は、自分が憧れた人間の世界に、せめて自分の子を送りたいと願ったのでしたが、母の願いによって人間界に送られた人魚の子は、あんまり幸せではなかったようです。
わたしにとってはフィリピンと日本の関係を通して眺めたこの物語には、感じるところがありました。
コメントなのに長くなっちゃった。
でも最後に・・・宗教的な思想の大御所、仏教では縁というものに対する思想が大変洗練されています。
いろんなリーインカネーションの話がありますが、わたしの心に残っているのは牛を大事に育てる男のの話です。
とっても目立たない挿話で、とくに教えらしいものも含まれていないような、仏教的な世間話みたいなおはなしです。
その男が牛をとても大事にしていたのは、その牛が前世には自分の母親だったかもしれないからだ、ということです。
このことは、深く考えないようにした方がいいですね。あるいは・・・深く追求するならば徹底的に深く掘り下げないと、とちゅうで迷子になってオウムみたいな宗教と信仰の区別がつかない森に迷い込んでしまうでしょうから。