僕について

人生も半ば? 誰かの役に立つかもしれないから、自分自身について語っておこうと思って。超私的blog。他2つもよろしく。

フィリピンとの遭遇(第三話 初心者編)

2004-12-31 22:10:00 | かみさんとの出合(過去のお話)
フィリピンパブに、毎週通うようになったのは、今思えば勘違いからなのでした。キスすらしたことがない私はそのとき話をし、帰りにキスをして分かれた情熱的な彼女を恋愛対象として見ていたのです。ある意味クールな日本女性に比べて、仕事とはいえそれほど情熱的に接しられたことがなかったため、そのこと恋愛関係に落ちたと思ったのです。(もちろん半分は遊びなんだと言い聞かせる心もあったのですが)

この子は当時25才ぐらいで結構ベテランでした。3人グループ+1で二人妹分でひとりは義理の妹?であった。店の中でも、ママと派閥があるようでした。

店へ行けばいつも朝までいました。しかし、そのこと一緒にいる時間はあまりなく、指名があるからと言って、いつも待たされる。最後は私の席へ来ましたが。

結局こんな調子で、居酒屋、Pパブ、同伴を繰り返し、月に2,30万は使っていたと思います。当時、残業も多く、ボーナスより給料が高いことはざらだったため、実家から通っていたこともあり、このぐらい使っても大丈夫だったようです。体はかなりぼろぼろでしたが、まだ若さで保っていた。

酒が好きで、音楽好き(打ち込みやバンドもやっている)でカラオケもそれなりに歌い受けが良い方だったのが、ハマリに拍車を掛けたようだ。

でも、当時はタガログ語は覚えられなかったです。まっそれなりにうまく日本語を喋る子だったのもあります。これだけでもベテランじゃん。また、当時の恋人?はミンダナオの出身で、ビサヤ言葉の方が多かった。

こうして、恋人?との楽しい夜が始まったのです。

(ちなみにこの人は今のかみさんではありません。)

掲載予定
 フィリピンとの遭遇(第四話 耽溺編)
 フィリピンとの遭遇(第五話 テレフォンカード編)

健常と障害

2004-12-30 22:22:48 | ダウン症だけど自閉っぽい(息子の事)
いわゆる障害を持った子供を持って、自分は健常と言われる部類にはいるのだと実感しました。子供の頃自分は普通ではないと思っていました。理由はいろいろですが、大きなものとしてひとつ喘息とアレルギー体質がありました。発作を起こすととても苦しく、夜も眠れない状態で、学校を1週間以上休むことはざらでした。また、学校の勉強にもついて行けず、成績も悪いため親からは、よく叱られていました。おとなしく気弱なこともあり、いじめられっ子でもありました。従って、全てのことに自身がなく、大人になっても社会に出て普通には働けないと考えていました。高校に行く頃になると、親からはお人好しの馬鹿息子、五体満足に生まれたことをありがたく思えと。何か親の気に入らないことをすればAB型だからやはり変わり者だと。ほめられた記憶は思い出せないぐらいです。

大人になり喘息やアレルギー体質は自分で大方コントロールできるようになったため、身体的な問題はほとんどなくなったが、心との戦いは続いています。

息子を見ていると羨ましく思われるときがある、今だけなのかもしれませんが、難しいことに悩まず、毎日明るく楽しく生きています。できることならこのまま生涯を終えられるようにしてあげたい。

一方、私の父親はうつ病にかかりそんな自分の心の弱さに耐えきれず生涯を終えました。うつ病の特徴だと一般的には言いますが、少なくとも自分にはそうは思えませんでした。(生涯に2度発病し、最後のきっかけは自分でした。)

自分のいまは?

健常者でも心の弱さが障害となり、障害とは認められない病気を持っている人は健常でも障害でもなく、障害を持っていても健常者以上に前向きに生きている人もいます。

この話に、結論はありません。私もまだ答えを探している最中なので。

フィリピンの音楽(1)

2004-12-29 22:01:37 | 音楽(趣味ですよ)
私が感じたイメージを書きます。ワールドミュージックというジャンルでアジア音楽がはやった時期がありました。そのときフィリピンの歌手のものも探しました。その当時はレジーン、スモーキーマウンテン、その他フィリピンではあまり有名ではない歌手、等ばかりでした。しかも、ほとんど英語で歌われており、曲はアメリカのパクリみたいでオリジナル性が感じられませんでした。(シャロンはかみさんと結婚してからしりました。日本で行われたコンサートにも行きました。)
現地でも、TVタレントが歌う曲はアメリカのヒット曲か、80’Sが多く、オリジナルもありますが、ほとんど先のもの多い。

一回書いたのを間違って消したため、ちょっとのらないのでここまで。また後で書き直します。

フィリピンでの食事(1)

2004-12-29 21:26:00 | かみさん(フィリピン出身の日本人)
それほど回数多く、長くフィリピンにいたわけではないので、私の思ったイメージとして見てもらえばいいです。フィリピンの食事で最もおいしく感じたのは家庭料理あるいは小さなレストランで食べたもの。いきなり話は飛びますが、tokyo tokyo と言うファーストフードの店が一昨年行ったときはやっていたので、かみさんと食べたんですが、絶句でした。ロングライフという食べ物と、ショウガ焼きを頼んだのですが、ロングライフはうどんでした。見た目は良さそうだったんですが、スープはぬるく面が固まったまま入っている部分がありました。味はラーメンぽい?。ショウガ焼きに至っては、というか付け合わせのキャベツの千切りが腐り気味の味でした。また、話は変わりますが、チェーン店でわりと有名なチャイニーズファーストフードの店があり、そこで注文したラーメン風はまあおいしかったのですが、アリさんがいっぱいは行っていました。そのぐらいは日本の中華料理屋でゴキブリさんが入っていたことがよくあるので驚きませんが。

脱線しますが、そこでエピソードですが、ちょっとおなかが下り気味でした。普段フィリピンでは外のトイレでは大きい方はしないのですが、我慢できず入りました。トイレはきれいでしたが、大事なことを忘れていたのです。そう、フィリピンのトイレにトイレットペーパが置かれていることはほとんどないのです。なぜかと言うとこれはまた別に細かく話しますが。そのとき私は仕方なく、物を流した後、便器の水をすくっておしりを洗いました。

話はそれましたが、フィリピンでの食事は米が中心で、おかずは基本的に汁っぽいものが多いです。なぜかというとフィリピン米は堅くてまずいため、汁っぽい脂っ気の多いものを混ぜるようにして食べます。食べ方は、生活のレベルによりますが、スプーンとフォークを使います。この食べ方、結構合理的なんですよ。いずれ紹介します。また、手づかみで食べる習慣も残っています。(これは家庭環境もあるよう)

カップラーメンですが、シーフードヌードルが皆さん好きですよね。フィリピンにも同じようなものはあるんですが、質が悪かったです。(うまくない)マミーというインスタントヌードルの方が有名です。

食事の話(違う話もしていたけど)は書き始めるときりがないので、本日はここまでにしておきましょう。
これはまだまだ序の口ですので、いずれまた気が向いたら書きます。

今年最後の飲み会(ウナギ串)

2004-12-28 22:20:43 | 
久しぶりにウナギの串ものを食べさせてくれる店へ行きました。元々焼き鳥が好きなんですが、ウナギの串というのは肝串以外はここでしか食べたことがありません。かしら、レバー、肝、その他4種類うまかったです。ウナギがそれほど好きではとない人は飽きるようですが。

yachang

2004-12-28 15:57:05 | かみさん(フィリピン出身の日本人)
最近、フィリピンのTV局 ABS-CBNに日本人がタレントとして出演しています。もともとはタレントであったわけではないようです。女の子を追っかけて行った結果、アイアイ(ちょっと久本雅美似)というコメディアンの女性に勧められてTVに出演するようになったとか。日本でもパーフェクトTVのフィリピンチャンネル(ABS-CBN)で見ることができます。アンサヤサヤという番組だったかな。

フィリピンとの遭遇(第二話 フィリピンパブとの出会い)

2004-12-28 11:49:00 | かみさんとの出合(過去のお話)
フィリピンとは全く関係のない人生を送ってきた私は、一応大学を卒業し、当時全盛を誇っていたソフトウェア業界に身を投じました。そこで、夜中も休日もプログラマとして仕事に明け暮れる私のはけ口と言えば酒(居酒屋)、カラオケ、買い物(CD、電子楽器、オーディオ製品)と至ってまじめなサラリーマン生活を送っていました。そんなこんなで、女性に奥手な私は28才になるまで、情勢に対する行動を起こすことはありませんでした。そんな私でも入社した頃からあこがれている女性がおり、周りも結婚して行く中焦りを覚え、何とかアプローチを始めました。しかしながら、女性経験のない私には出社時に話しながら歩くとか映画に誘うぐらいが関の山で、それ以上先に進むことはできませんでした。さすがに30才を迎える頃には彼女も別の人と結婚をしてしまいました。ショックでした。ちょうど忘年会シーズンだったころで、会社の先輩にのみに誘われました。それが新たな運命の始まりでした。くそまじめなのんべの私はパブやキャバクラなどほとんど行ったことがなく。全くおもしろいとも思っていませんでした。先輩に連れて行かれたのは、フィリピンパブだったのです。

傷ついて、落ち込んでいた私には、日本にありながら、外国の楽園のように感じられました。ラテン系のノリ、情熱的な態度。その日の内に、私はフィリピンパブの虜になっていたのです。帰りにキスをしてまたきてねとみんなに見送られた日には完全な勘違いの世界へ真っ逆さま...

そして私はフィリピンパブへ毎週(週数回)のように通い始めたのでした。

フィリピンとの遭遇(第一話 未知編) 

2004-12-27 15:00:38 | かみさんとの出合(過去のお話)
最近、「日本への看護師の労働派遣が将来認められることになったといった」と言ったニュースがよく聞かれるようになりました。その他「日本とフィリピンの自由貿易協定(FTA)協議の農業分野で焦点の一つとなったバナナ(関税率10~20%)では、「相手国の飢餓・貧困の解消」を柱に掲げた農林水産省のFTA基本戦略が大きく生かされた。東南アジア諸国連合(ASEAN)を軸とした今後の対アジアFTA交渉を進めるうえでモデルケースとなりそうだ。」等のニュースもあり、ずいぶんと日本との関係も変わってきたようですが...

私がフィリピンと言う国の名前を聞いたのは、父親の戦時中の話が、最初だったと思います。差別的な話ばかりでした。なぜか、それに対してものすごく反発を覚えたものです。

しかし、当時ニュースで流れてくることと言えば、
小野田さんの話。(昭和49年2月21日、ルパング島で発見された。)
ジャパゆきさん。(父親が持っていた週間なんとかで記事になっていたのを見たのが最初、貧乏で金ほしさに日本来て、何でもやるといったかんじだったかな。)


トロピカルフルーツが主な原産でテクノロジーなどが送れた国。
犯罪者が逃げ込むマニラ。
イメルダマルコス。
アキノ大統領暗殺。

ある意味良い情報は何一つ聞こえてこない時代でした。

その他と言えば、バナナ、パイナップル、マンゴなどが輸入されてくる国。フィリピンについてはそんな知識しかありませんでした。

日本で有名になったフィリピン人もマリーンぐらいしかいなかったし。(ルビーモレノは遭遇してからの同時進行だった。)

ほとんど何も知らない国でした。

YOU

2004-12-23 00:29:04 | 音楽(趣味ですよ)
飲み会の帰り、テレビでYOUがでてます。フェアチャイルド時代のアイドル、すっかりお笑いのメインキャラ。でもがんばってます。女優的シンガーだったので、曲に恵まれないと難しいのでしょうけど。戸田誠二さんはまだ元気ですから、もう一度フェアチャイルド的な音楽を年相応でがんばってみませんか。声質ですね。矢野顕子、小川美潮に次いで特徴のある歌手だったと思います。YOUさんもう一度歌手のみちお願いします。