甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

原敬記念館

2008-02-10 14:53:40 | 盛岡散歩


 ・原敬記念館 本宮字熊堂

 平民宰相として知られる原敬の生家跡地に、生家・別荘等の一部を保存し、原敬の軌跡を顕彰する施設。付近は近年開発され、駅に通じる大きな橋もでき、大型ショッピングセンターやらマンションやらじゃんじゃん建っています。原さんが見たらびっくりするでしょうね。


 原敬の座右の銘「宝積」を刻んだ碑。
 宝積経にある言葉で「人に尽くして見返りを求めない」「人を守りて己を守らず」の意味があるとのこと。なかなかできることではありません。

 後ろの建物が記念館になっています。
 記念館内部には原の幼少期から最後の日を迎えるまでの一生を辿り、写真・新聞記事・書簡・日記等の多数の資料が展示されています。
 圧巻なのは暗殺されたときの衣服。赤い縞柄のシャツはかなりお洒落です。しかしそのシャツに赤い血痕が鮮明に残っているのです。

 原敬は政治家でしたので展示はどうしても大人向けになってしまいますが、その中で子供にも分かりやすい解説版がいくつもありました。博物館実習を行なった学生さんが作成したものとのこと。要点をしぼった解説で、大人が読んでも役に立つものです。この記念館のありかたの素晴らしさが垣間見える気がします。


 原敬が産湯をつかった井戸。原敬は生家で15歳までをすごしました。


 別邸・介寿荘の倉。赤レンガ総2階、大正3年大通3丁目の旧古川端に建築され、昭和55年移築復元されました。「原敬日記」もこの倉に収蔵されていました。
 なんとも素敵な倉です。もしこの倉が現在でも大通3丁目(七十七銀行やホテル東日本のあたり)にあったら・・・と空想してしまいます。


 鎌倉腰越別荘の書斎。昭和63年に移築復元。原はここで激務の合間に句作や思索にふけったそうです。原は優れた俳句も数多く残しています。号は「一山」または「逸山」。「白河以北一山百文」にちなんでいます。

  余十六歳にして郷里を出他郷に在ること五十年、今は六十六歳の老翁となりぬ

   わけ入りし霞の奥も霞かな

   大正10年3月、原暗殺の8ヶ月前の句です。


 原敬生家。第7代原家当主直記(敬の祖父)が嘉永3年(1850)に建てました。直記は盛岡藩家老職に就いていたため、200坪もある大きな屋敷に藩主を迎えるための「御成座敷」も作られました。
 第9代当主原恭(敬の兄)は明治6年に不要となった部屋を廃却しました。現在は当初の5分の1程度が残っています。市指定有形文化財。


 原家第3代茂平は勘定頭まで出世しますが、藩主信恩公廃立に連座したため咎めを受け、家禄没収と追放処分にあいます。菩提寺(光台寺)を頼るも断られ、住職の紹介で大慈寺に身を寄せ援助を受けます。その後本宮に居を定め、新田開発にあたります。再び召抱えられた後も居を城下に移すことはありませんでした。
 原家ではそれ以後大慈寺の恩を遺言で伝え、敬は大正8年(1919)寂れていた大慈寺を独力で復興し、恩に報いることになります。 


 庭園。雪のない時にまた訪れたい場所です。
 それにしても、原敬ってすごい人物ですね。


  開館時間 午前9時から午後5時まで(入館は4時30分まで) 
  休館日  月曜日 他 
  入館料  一般 200円  小中学生 50円

  ※中央公民館・遺跡の学び館・子ども科学館・先人記念館・盛岡てがみ館との共通入館券がお得です。650円で4館に、350円で2館に入場できます。

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