甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

常安寺・判官稲荷神社

2008-02-06 14:58:58 | 宮古散歩


 ・常安寺(曹洞宗) 沢田4-11  

 宮古では大きなお寺です。
 天正8年(1580)横山八幡宮近くに開山しましたが、約30年後大津波によって流出したため、1625年現在地に移転・建立されました。本堂は江戸中期に大修築、大正9年にも改築されています。現本堂を飾る欄間彫刻と杉戸絵は旧本堂から移設されたもので、市の文化財に指定されています。

 本堂に入ってすぐ後ろを振り返ると、頭上に大きな地獄絵図があります。私は小さい頃この絵を見ながら祖母に地獄の話を聞きました。また本堂内のお地蔵様は子どもの守り神なのに、当時よく見かけた「インディアン人形」みたいな顔だったのでとても怖かったのを覚えています。(年がばれますね・・・)


 山門からたくさんの碑やお堂を経て、本堂に至ります。

 この参道は、お盆の13日夕方には提灯を持って迎え火に訪れる人でにぎわいます。本堂のろうそくの火を提灯に移して帰宅し、祭壇のろうそくに灯します。14日・15日の早朝にはお墓参り、16日には送り火です。16日には本堂前で山口太鼓の奉納があります。

 山門の右側の道路が墓地へと続きます。この道は山にへばりつくように作られた墓地を通り抜け国道45号へと続くので、実は地元の人にとっては格好の抜け道になっています。
 ここの墓地では、お盆のお墓参りのときに花火をする人が多いです。宮古ではお盆やその他数日「松明かし」をする日が決まっていて、子どもはその日しか花火をさせてもらえないことが多いです。お墓参りのときもお墓の前で松明かしをするので、それが花火に結びついたのだと思いますが、朝早くから爆竹が鳴り響き落下傘が落ちてくる墓地というのも珍しいのではないかと思います。もっとも私は高校を卒業するまでそれが当たり前だと思い込んでいたわけですが。

 ところで常安寺7世住職・霊鏡竜湖は名僧中の名僧と称された人で「浄土ヶ浜」の名付け親でもあるそうです。
 当時の浄土ヶ浜は昼でも薄暗い道を越えていくので地元の人もあまり訪れなかった場所でした。竜湖はその景観を極楽浄土の荘厳を自然に完備していると讃嘆し、「浄土ヶ浜」と命名したと言います。


 ・判官稲荷神社  

 常安寺のすぐそばにある神社です。

 「判官」ということは源義経に関係するということになるのですが、これは「義経北行伝説」に基づいています。義経は平泉の高舘において自刃したとされていますが、実はこの時自害したのは家臣で、義経は北へ逃げ延びた、というのです。その伝説の一つに、3年3ヶ月隠れていた黒森山を出た義経一行はこの地に甲冑を埋めて稲荷神社を祀り、更に北へ向かった、というものがあるそうです。社殿内に「判官稲荷塚記」の扁額が掲げられ、この地方に一行が来たことが記されているそうです。

 お狐さんの守る鳥居をくぐり、かなりきつい石段を登って社殿にたどり着くと、ちょっと樹木が邪魔ではありますが、宮古の市街地を見渡すことができます。

 
 「御用の方は横山八幡宮へ」との張り紙がありました。

 
 小さな祠がまとめて祀られています。赤い色がお稲荷さんらしく鮮やかです。

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