隊員NO.7ゆっこで~す(^_^)v
5月21日の記事でご紹介させていただきましたように、
「古九谷のはじまりと廃止」について知ることができる史料に、
1736(享保21)年の『重修加越能大路水径』があります。
この本の敷地川の項に、
「此の山中を九谷と云ふ、明暦年中實性公後藤氏に
命じて土器を焼かしめし所なり、其他に焼物あるようで、
南京焼に同じ、中頃制禁あるようで、今は絶へたり」
とあります。そして記述の中の制禁は「製造禁止」の意味です。
ですからこの記述から、1695~96(元禄8~9)年の時点で大聖寺藩として、
「もう古九谷をつくらない。」という意志が働いていたと考えられます。
そして大聖寺藩が古九谷の製造を中止した理由として、江戸幕府から
かけられていたある猜疑を回避する目的があったというのです。
その猜疑とは「九谷で働く陶工の中に、中国や朝鮮半島からやってきた
人たちやキリシタンがいて、大聖寺藩が匿(かくま)っているのではないか?」と
いうもので、大聖寺藩は藩がお取り潰しになることを恐れ、疑いを晴らすために
躍起となり、古九谷を自ら廃絶したのでは?と思われるのです。
確かに九谷の窯が肥前・有田の技術を取り入れていたことは紛れもない事実
でしょうし、九谷に中国や朝鮮半島からやってきた陶工や隠れキリシタンがいたと
十分考えられます。そうであるとすれば、幕府は大聖寺藩を疑い、大聖寺藩は
幕府の嫌疑を避けるため必死になったに違いありません。
何でも幕府が大聖寺藩に送り込んだ「忍びの者」の一人が1689(元禄2)年に
山中温泉を訪れたあの松尾芭蕉だったという説もあるそうです。
忍びの者の鉄則として、「堂々とお国入りをするためには、芸事に長けろ!」と
いう教えがあります。松尾芭蕉は伊賀上野の出身で、『奥の細道』で
仙台藩や加賀藩という外様の大藩を巡っています。また俳諧の大家で、
しかも健脚でしたから、幕府の隠密としての条件はピッタリですよね。
それから、昭和時代に活躍した作家・坂口安吾のご先祖様は、
肥前から九谷を経て新潟に移り住んだ人で、古九谷が消滅した際に
九谷から去った陶工だったのではないかという説もあるそうです。
現在、新潟県松之山町の大棟山美術博物館内に「安吾記念館」があって、
この考えを知る史料を見学できるそうですよ。「坂口安吾デジタルミュージアム」
のブログをリンクさせていただきましたので、ご確認下さい。
「坂口安吾はどこから来たのか(1)」(←クリック)
興味が沸きますね!