実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

柴山潟・人や物をむすんだ加賀三湖

2012年08月24日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す(^^)/

片山津温泉といったら、何と言っても柴山潟ですよね。

柴山潟を隔てて仰ぐ白山の雄大なながめ、そして潟をわたる清らかな風は春夏秋冬と四季折々の

自然の美しさをかなでてくれます。

かつて柴山潟は小松の木場潟・今江潟(いまは干拓で姿を消しました。)とともに加賀三湖とよばれていました。

加賀三湖が誕生したのは、今から約2千年前のことです。古くは日本海が深く流入していたところで、

砂丘が発達したことによって海岸線が後退し、海水が封印されて潟湖(ラグーン)になったのです。

柴山潟をはじめとする加賀三湖があったことから、この地方は昔から「江沼(えぬ)の国」と呼ばれました。

そして加賀三湖は川で結ばれ、船で自由に行き来することができたので、物流の拠点となっていました。

平安時代には交通手段として加賀三湖が利用されていたという記録があります。

加賀守(かがのかみ)であった藤原為房(ふじわらためふさ)の日記には、加賀国府(小松市)から安宅湊近くまで

梯川(かけはし)を下り、今江潟、串川、柴山潟、大聖寺川、北潟、九頭竜川などを経て帰京したと記録されています。

明治から昭和初期にかけては、舟による貨物輸送業者が現れるなど、舟運(しゅううん)の最盛期でした。

北前船で栄えた小松の安宅港→前川→今江潟→柴山潟→動橋への船での移動が可能でした。ですから周辺

の町は様々な物資の運搬で栄えていたのです。

その証拠に南加賀地方には”津”という字がつく地名がたくさんあります。片山津・潮津・月津・粟津・符津など、

それらはすべて加賀三湖の船着場だったところです。柴山潟を囲む形の村だった月津は元は「着津」とも

表記され、その名は柴山潟船着場に由来するともいわれているのです。

ところで、みなさん。柴山潟って、かつては今の3倍の大きさがあったのをご存じですか?

加賀三湖周辺は、低湿地帯のため、たびたび水害や塩害の被害が出ていました。そして第2次世界大戦前後の

食料難の時代になると、農地開拓の声が上がり、国営干拓事業が開始されます。

1952(昭和27)年、加賀三湖干拓国営事業がはじまり、1954(昭和29)年、まず水を直接日本海に放流する

ために、柴山潟から伊切海岸にいたる新堀川が掘られました。1967(昭和42)年より排水が始まり、

今江潟の全面干拓(238ha)と柴山潟の約6割(576.2ha)の干拓をし、事業は1969(昭和44)年に

完成しました。この事業により、柴山潟の大きさは約1/3になったのです。

かつて柴山潟には様々な生物が生息し、漁舟による投網が盛んで、鮒・うなぎ・エビなどがたくさん採れたそう

です。投網の光景は片山津温泉の利用客に大好評で、観光面でも大きな役割を担っていました。

今、柴山潟は片山津温泉の観光拠点として、ますますその価値がクローズアップされています。

物流の拠点だった柴山潟の歴史についても、多くの人々に伝えていきたいものですね!

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