久しぶりにアイルランドに戻ります。
ジェイムス・ジョイスの塔の博物館が開館するまで、周りの風景を写真に撮っていました。
上の画像は歩いて通ってきた、ダンレアリーからの海沿いの風景です。
面する湾はスコッツマンズ・ベイ(スコットランド人の湾)と呼ばれています。ダンレアリー港創設の技術監督者であったスコットランド人のジョン・レニー(1761-1821)にちなんだ名前です。
下の画像はもう少し南側でしょうか。家並みの向こうには緩やかな山というか丘陵が見えます。
ダブリンの南の海岸沿いにあたるこの地域はアイルランドでもわりと裕福なエリアらしいです。
緑に恵まれていますが、アイルランドの東岸などあちこちをめぐると、まだこれは単なる前哨で、全土が緑でいっぱいだと思い知らされることになります。
以前の記事で、NHKテレビ「しあわせ気分のドイツ語講座」のベルリンのタトゥー娘に文句言っていたのですが(笑)、救世主が現れました。
それはミュンヘンの音大生レベッカさんです。
彼女はミュンヘンのシェアハウスに住んでいる、いつも裸足のシュテファンさんのガールフレンドです。
真面目そうなところに救われたのですが、彼女も別にシェアハウスしており、同居人はなんと男性三人!
今のドイツでは普通の事なのかもしれませんが、おとなしい顔してやりますねえ。
そこにシュテファンさんも呼ばれ、一緒にカボチャのカレーを食べてました。
甘いのか辛いのかよくわからないカレーですが、見かけはおいしそうです。
そして次の番組では、彼女が日本好きなことが判明。
一生懸命漢字の練習をしたり、日本人留学生と日本語の会話練習をしていました。
また日本食にも親しんでおり、味噌が具のおにぎりがお気に入りとのこと。
戦国時代の非常食みたいで渋いですねえ。
ずっとレベッカさんに出演してほしいのですが、番組予告を見ると、またベルリンに戻ってしまうみたいですね。残念。
そんなレベッカさん、漢字好きが高じて、よくある漢字のタトゥーを入れていないか、それが心配です(笑)。
フリードリヒ2世
シチリア王にして神聖ローマ皇帝
藤澤房俊 著
平凡社
2022年3月9日 初版第1刷発行
本書は、ドイツのシュタウフェン家とシチリアのノルマン朝の血を引き、教皇と戦い続けたシチリア王にして神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の破天荒な生涯を語っています。
プロローグ フリードリヒ二世とは
フリードリヒ二世に対する歴史研究者の評価
・ブルクハルトはフリードリヒ二世を、あらゆる権力を手中におさめようと、中世の封建的社会秩序を脅かした、イタリア・ルネサンスの僭主に先んじた人物と理解する。
・最近の研究では、フリードリヒ二世は、ルネサンスの先駆者ではなく、中世の頂点と凋落を具現する皇帝とみなす。
・カントーロヴィッチの『皇帝フリードリヒ二世』は出版当時から研究者の厳しい批判を受けた。古典中の古典ではあるが。
・今日の研究では、フリードリヒ二世が、母方のノルマン朝の法律、統治体制を継承し、父方の祖父フリードリヒ一世(バルバロッサ、赤髭王)の帝国理念を追求した中世の皇帝であることに異議を唱える人はいない。
・EUの誕生に伴って、多文化的特徴と宗教的寛容、西洋と東洋の対話の主導者、「コスモポリタン的精神」が強調されるようになった。
Ⅰ シュタウフェン家とノルマン朝の結合
赤髭王の政治目的はイタリアにおける神聖ローマ帝国の強化と拡大にあった。
赤髭王のイタリア政策における三つの明確な目標
・北イタリアの都市が行使している裁判権・徴税権・貨幣鋳造権などの皇帝の特権、レガリアを取り戻す
・帝国に属するシチリア王国を服従させる
・皇帝権の教皇権に対する優位を確立する
Ⅱ 「子ども王」の時代
神聖ローマ帝国へのシチリア王国の統合
シチリア王国を神聖ローマ帝国に吸収・合併するということではなく、シチリア王国は残しながら、帝国との連携を強化して、イタリア半島を統一的に支配すること。
シチリア王国が無政府状態にあった10年間に、祖父ルッジーロ二世が建てたパレルモの王宮のなかで、フリードリヒ二世が騎士としての鍛錬を重ね、ラテン語などの言語を学び、帝王学を学んでいた。
フリードリヒ二世の股肱の臣ベラルド・ディ・カスターニャ
Ⅲ ドイツの八年間
二番目の股肱の臣ヘルマン・フォン・ザルツァ
教皇と皇帝の対立を緩和することに全生涯を捧げている。
Ⅳ シチリア王国の再建
教皇ホノリウス三世がフリードリヒ二世を神聖ローマ帝国皇帝として戴冠するという決断の理由
・エジプトで窮地に立たされていた第五回十字軍を成功させるため
・ローマ教会の財政的・司法的な特権を含む「教会の自由」を保証できる強力な皇帝権を必要としていた。
・異端に対する戦いで皇帝の関与を必要としていた
フリードリヒ二世は
四歳でシチリア王
十七歳でドイツ王
二十六歳で神聖ローマ帝国の皇帝の座についた
三番目の股肱の臣ピエール・デッラ・ヴィーニャ
文書作成術の才能を認められる
Ⅴ 一回目の破門と十字軍遠征
1229年、フリードリヒ二世イェルサレム入城
血を流すことなく、奇跡のようにイェルサレム解放を実現する。
戦いを交えることなく、平和的な方法で、これまでいかなる十字軍も成し遂げられなかった成果を上げた。
Ⅵ 教皇との虚虚実実の駆け引き
「メルフィ法典」は中世ヨーロッパにおける最初の広範な法律の集大成
フリードリヒ二世が建て建物の中で最大の傑作が、今は世界遺産となっているプーリアにあるカステル・デル・モンテ
すべてが八角形な建物。城塞か、鷹狩りのための住居か、神殿か、天体観測所か、その用途については今も結論には至っていない
Ⅶ ロンバルディーア都市同盟との戦い
ロンバルディーア都市同盟は都市ミラノの旗を掲げたカッロッチョと呼ばれる旗車の周りに集まり防戦したが、カッロッチョはフリードリヒ二世側に奪われた。
Ⅷ 教皇との戦い
教皇グレゴリウス九世がフリードリヒ二世に破門を宣告した日、ドイツ騎士団団長のヘルマン・フォン・ザルツァが亡くなった。
グレゴリウス九世の後はインノケンティウス四世が教皇となった。
インノケンティウス四世は引き続きフリードリヒ二世に敵対した。
ピエール・デッラ・ヴィーニャに裏切られるフリードリヒ二世
Ⅸ 「世界を輝かさせていた太陽が沈んだ」
占星術師に「花の下で」死ぬと予言されていたフリードリヒ二世はフィレンツェを避けていたが、ルチェーラのフィオレンティーノ城で亡くなった。
定家『明月記』の物語
書き留められた中世
稲村榮一 著
ミネルヴァ書房
2019年11月30日 初版第1刷発行
はしがき
明月記は同時代の方丈記や平家物語に比べて、視野が広い。
定家は時代の全体を見聞き出来る好位置にいたからであろう。
序『明月記』天変八百年
日記の大部分を占める典礼・作法と合わせて、書き留められた身辺の事や世事の伝聞記事が時代を語る面白さは、現代においても興味を誘ってやまない。
茶の湯の盛行と、それに伴う定家筆跡の異常なまでの需要がおこる。
古書が長い歳月に耐えたのは、和紙に墨書した文書という点も注目すべき
文書修復の人たちは「和紙千年、洋紙百年」という。
1 俊成の五条京極亭焼亡 洛中の火災頻々
2 俊成と子女たち 一夫多妻時代
一夫多妻の場合、異母同父の兄弟は比較的疎遠に見えるが、異父同母の兄弟は親しいらしく、年賀などには母のもとに集まったりする。
3 世界が驚いた天文記録 大流星・超新星
定家19歳の9月、大流星の記録
定家69歳の時、奇星を見る。それをきっかけに過去の客星の出現例を天文博士に問い合わせる。
その八例の中に、176年前に(1054)起きたカニ星雲の爆発の記録があり、天文学者に注目される。
オーロラを見た記録かと思えるものがある。
1200年頃は、地磁気の軸が今よりも日本側に傾いていて、日本においてもオーロラが観測できやすかったと考えられる。
4 紅旗征戎は吾が事にあらず 乱世の軽視
5 高倉院崩御 末代の賢王を慕う
6 剛毅の女房の生涯 健御前の『たまきはる』
健御前は定家の五歳上の姉、強烈な個性を持ち、四人の女院等に仕えた生涯だった。
『たまきはる』は日記というよりも宮仕のあり方を教えた著作
7 九条家四代に仕える 浮沈を共にする主家
8 定家の家族と居宅 西園寺家との縁組
9 荘園経営の苦労 横領・地頭・経済生活
10 式子内親王と定家 「定家葛」の伝説を生む
11 後鳥羽院と定家 緊張した君臣関係
12 熊野御幸に供奉 山岳重畳、心身無きがごとし
定家40歳の10月、後鳥羽院の熊野御幸に供奉した。
13 官位昇進に奔走 追従・賄賂・買官・婚姻
14 日記は故実・作法の記録 殿上人の日々
15 禁忌・習俗 穢を忌む
16 南都・北嶺 紛争止まぬ武闘集団
「南都・北嶺」は奈良の興福寺と比叡山延暦寺を併称した言い方であるが、この当時は強訴・闘乱を繰り返す僧兵の拠点という印象が強い
17 救いを求めて 専修念仏・反念仏・造仏・写経
後白河院は熱狂的な歌謡好きで、遊女・白拍子を問わず歌の名手を召しては歌わせ、自らも喉から血が出るほどに歌ったと言われる方である。
18 「至孝の子」為家 後鳥羽院の寵・承久の乱前夜
為家は蹴鞠にはまり込む。天皇・院両主が観覧される。
蹴鞠は後鳥羽院時代に特に朝廷や公家で盛んになった遊戯で、鞠壷(蹴鞠のコート)の中で、八人が鞠を地に落とさないように蹴り上げ、受け渡し続けて千回を目指す。
19 承久の乱 「武者の世」成る
20 文界に重きをなす 古典書写・新勅撰集
現在『源氏物語』の転写本は「青表紙本」「河内本」「古本」と呼ぶべき物との三系列がある。
定家64歳の二月記に見える記事は、青表紙本の成立と見る説が多い。
21 群盗横行の世 天寿を全うしがたきか
22 京洛の衰微 焼亡ありて造営を聞かず・豪商
23 寛喜の大飢饉 路頭の死骸数を知らず
24 定家の身辺事 病気・保養・楽しみごと
25 世事談拾遺 定家の説話文学
明月記抄 定家年齢譜
あとがき
本書の校正時に至って、定家が比叡山で見た光は確かにオーロラだったと確認された。日本最古のオーロラ観察記録でもあった。
超新星の誕生記録に止まらず、新たな名誉だった。