ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

中世イタリアの大学生活

2023-05-14 20:46:08 | ヨーロッパあれこれ

 

中世イタリアの大学生活

グイド・ザッカニーニ 著

児玉善仁 訳

平凡社 発行

1990年7月13日 初版第1刷発行

 

原題の直訳は、『十三、十四世紀におけるボローニャ大学の教師と学生の生活』となっています。1924年頃に書かれました。

ボローニャ大学の黄金時代を史料に忠実に描き出しています。

 

はじめに 世界最初の大学 ボローニャ大学の成立

世界最初の大学制度としての中世大学は、まずボローニャに生まれ、そして同じ頃パリにも生まれた。

パリ大学の方は教師中心の組織だった。

これに対して、少なくとも初期のボローニャ大学は学生の組織だった。

当時は外国人学生の方が多く、それが同郷ごとに国民団を結成し、それがいくつか集まって、自らの規約をつくり、団代の長である学頭以下の組織をおいて、組合組織として法的形態を整備した。

その際、イタリア人以外の学生の国民団が集まってアルプス以北組大学団を、イタリア出身学生の国民団が集まってアルプス以南大学団を形成。

つまり、最も初期のボローニャ大学は、法学を学ぶ学生たちが形成した国民団の複合体である二つの大学団によって構成されていた。

 

教師は学生に対して「栄誉ある従属」だった。その威厳は学生の評価と認定で保たれてきた。p15

 

中世都市にとっては、大学を持つことで文化的威信がもたらされるだけでなく、多数の外国人学生がその町に流入することによって、直接には都市経済そのものが活発になり、間接にはアルプス以北との交易を確立するチャンスが増大するというメリットがあった。

しかしそれと同時に、外国人学生によって町の秩序と治安が脅かされるというデメリットも生じた。p19

 

ボローニャ大学はきわめて国際的な組織だった。その性格を持つことが出来たのは、共通言語としてのラテン語の存在があったためと、教皇権や皇帝権という地域国家を超えた普遍的権力による後ろ盾があったためである。

その普遍的権力を後ろ盾として、大学は地方権力であるボローニャの町と抗争を繰り返した。

そして抗争の結果「人」としての中世大学はボローニャの町を飛び出して他の町に移動し、そこで新たに大学をつくった。

 

序章

 

第一章 大学の学頭たち

 

第二章 大学教師たち

 

第三章 学生たち

ボローニャの学生はたいてい年長になった者で、しばしば教会参事会員であったり、すでに教師であったり、勉学生活をするために役立った聖職禄をすでに享受している聖職者たちであった。p86

 

ボローニャの党派抗争に大学の教師と学生もしばしば巻き込まれていた。p90

 

今日見られるような大学の建物は、イタリアでは15、16世紀から始まったにすぎない。

それまでは学校は町全体のあちらこちらに少しずつ散在していた。p123

 

第四章 文法教師たち

文法の学習はすでに12世紀からボローニャで深められていた。

文法は、法律のより高度な学習のための初歩的基盤であり、必要欠くべからざる準備でなければならなかった。p146

 

中世の文法というのは、今日のような狭いものではなく、ラテン語の読み書きから著作家の読解に至るまで幅広い意味を持っていた。言葉に関わることに等しかったとさえいえるだろう。p234(訳注)

 

第五章 私的教師たち

教養と法律の歴史にとって、中世における私的教育の研究はかなり重要である。

学校というものが、教会によって常にかつ全面的に従属されておらず、統制もされていなかったこと、またコムーネ当局からある種の独立を享受していた。p174

 

私的な学校と並んで、今日会計学と言われる内容の自由な学校もそこにはあったに違いない。

北イタリアと中部イタリアの間の、商業活動の中心であったボローニャのような豊かな町は、商人や銀行家になるための実務教育をも用意しなけらばならなかった。p190

 

第六章 大学の職員たち

 

第七章 ボローニャ大学の衰退

大学が衰退した原因の一つは、コムーネ当局がもはや大学に教師を引き留める力を持っていなかったという事実にもあった。p217

 

疫病の恐怖から外国人学生が大学を見捨てた。p219

 

訳者あとがき

中世ボローニャの若き学生たちのエネルギーは、確実に勉学への情熱となってほとばしり出ており、彼らの知識への渇望こそが大学を支配していた。p222

 

修道院が古い知識の象徴であったとすれば、イタリアの中世大学は新しい知識の象徴だった。p223

 

12世紀頃のヨーロッパで興った知的渇望を充足した新しい知識が、基本的にはローマ法や古代医学の再生であった。p225

 

『神曲』で有名なダンテは、1285年から2年間ボローニャ大学で学んだ。P240 訳注

 

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欧州カフェ紀行

2023-05-12 20:28:28 | ヨーロッパあれこれ

欧州カフェ紀行

カフェの旅で出逢う、珈琲と人生の物語

Aya Kashiwabara 文・写真

飯貝拓海 写真

いろは出版 発行

2021年9月28日 第2刷発行

 

ローマのアンティコ・カフェ・グレコ

文豪ゲーテが愛したカフェ

デミタスの発祥地

深入りの豆で淹れた少量の凝縮された珈琲を小さなカップで飲むもので、エスプレッソの原形

ナポレオンの大陸封鎖の影響でヨーロッパ中が珈琲不足にあえいでいた頃、豆を節約するために編み出された苦肉の策

珈琲不足の時

アメリカではたっぷり飲めるように薄め

イタリアは濃く飲めるように量を少なくし

ドイツはチコリやどんぐりで高品質の代用珈琲を生産した p88

 

クラクフはポーランドの古都

11世紀から約600年にわたり、ポーランド王国の首都として栄える。

第二次大戦時は連合軍はその街並みを残すため爆撃を避けたといい、クラクフはかすり傷一つなく残された。p114

クラクフの歴史地区は1978年に登録されたユネスコ世界遺産第一号

 

カフェ・アルヘミア

このカフェがあるカジミェシュ地区はユダヤ人を隔離するゲットーとして作られたのではなかった。

世界で唯一ユダヤ人を保護するために新設された地区

 

パリに最初のカフェが出来たのは1686年

これ以前にもカフェがあったのだが、それらはトルコの屋台風でパリの上流階級には受け入れられず消えていった。

そんな店の一つで修行していたイタリア人が路線を変えてオープンしたのは「カフェ・プロコップ」である。

これまでのオリエンタルなカフェをフランス風に洗練させた。p215

 

プラハのカフェの特徴

ドイツとチェコの一筋縄ではいかない歴史的関係を示すように

三つの文芸カフェが言語別に連立していた。

チェコ語優勢、ドイツ語優勢、チェコ語とドイツ語両用で討論できるカフェがあった。p227

 

香草の成分名からとった「アブサン」という名は必然か偶然か、ラテン語で「不在」を意味するp229

 

スメタナの「わが祖国」

「モルダウの流れ」はその第2楽章を引用したもの。

スメタナ50歳を超えてからの作品

当時はチェコはオーストリア=ハンガリー帝国の一部で、川の名も日本にはチェコ語の「ヴルタヴァ」ではなく、ドイツ語の「モルダウ」として入ってきている。p274-275

 

紅茶のブランド、トワイニング社がロンドンにオープンした「トムズコーヒーハウス」

「チップ」の発祥地

TIPはTo Insure Promptness(素早いサービスを提供します)の略で、TIPと書かれた店内の箱に2ペンス入れるとより早くサービスしてもらえた。p274-276

 

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学問への旅 ヨーロッパ中世

2023-05-08 20:56:28 | ヨーロッパあれこれ

 

学問への旅 ヨーロッパ中世

木村尚三郎 編

山川出版社 発行

2000年4月30日 1版1刷 発行

 

序文

1990年の大学定年までの数年間、大学院の学生諸君とゼミでともに読んでいたのは、十四世紀末の著者不詳の史料、『メナジェ・ド・パリ』だった。

少なくとも六十歳に達していたと思われる夫が、十五の妻に綿々と、かきくどくように説いた、めっぽう面白い生活指南書、家事の本である。pv

 

Ⅰ 王と貴族

スコットランドの形成と国王たち

 

エドワード一世のウェールズ戦争

 

シスナンド・ダビーディス

十一世紀スペインの一貴族の生涯

 

中世シチリアのノルマン王と官僚、貴族たち

十二世紀シチリア王権の二つの特徴

・この王国の王たちが、王宮で多くのイスラム教徒に囲まれて生活していた

・王権を支えていたのが、宮廷の重臣・官僚たちと伯やバロンたちの大諸侯たち、首都パレルモの市民だったp61

 

中世ハンガリーのクマン人とラースロー四世

 

ジャック・クールの時代 15世紀フランスの商人と国家

ジャック・クール

1395年頃、ブールジュに生まれる。ジャンヌ・ダルクと同時代人

東地中海との貿易で得た富をさらに商業に再投資する以外に、2つの方向に投資した。

・パンパイィ銀山のような産業経営

・フランス王国の国政

 

ウェイクフィールド橋上の礼拝堂 橋と伝説をめぐって

ウェイクフィールドの中世の橋の上の礼拝堂。ブリッジ・チャペルと呼ばれる。

現存のブリッジチャペルはわずかに4つ

ウェイクフィールドは、バラ戦争にまつわる悲劇の伝説となっている。

 

Ⅱ 知識人と民衆

ランスのヒンクマールと「一日参集会」

ランスの大司教ヒンクマール(在任845-882)

一日参集会 司教区内の聖職者が毎月一日に、首席司祭区ごとに集まる集会

これは古代世界の新月祭の伝統が中世キリスト教世界の中に受け入れられ、定着したものといえようかp150

 

ラウール・グラペールと「紀元千年の恐怖」

ラウール・グラペール(985ごろ-1047?)

十一世紀後半のブルゴーニュで活動した修道士

『聖ギヨーム伝』と『歴史五巻』を書く

12歳でオセールのサン・ジェルマン修道院?に入る

性格的に問題あり修道院から追放される

1020年頃ディジョンのサン・ベニーニ修道院に入る

1030年から35年にはクリュニー修道院に滞在

1036年には古巣のオセールに戻り、10年後そこで没する

『歴史五巻』と、そこに記された紀元千年の記述により、フランス中世史を研究するものにとっては、看過できない人物

キリストの生誕および受難から千年たった紀元1000年と1033年に特別なこだわりを持っていた。

 

ニクラスハウゼンの笛吹き ハンス・ベームと中世後期の宗教的民衆運動

バイエルン州のフランケン地方

中世後期から近世、つまり14世紀から16世紀に、この地域で教会や聖職者を批判し、教会の刷新や社会の改革を主張する言説がさまざまな社会層から唱えられた。

社会の最底辺の牧人にて楽師のハンス・ベーム

右手に縦笛を持ち、右手首に固定された太鼓を左手に持ったばちで叩く

幻視から神のメッセージの告知者となり、ニクラスハウゼンへ多くの巡礼者を導く

 

フランシクス・ザバレッラと公会議主義 コンスタンツ公会議の時代

 

ユマニスト、レオン・バッティスタ・アルベルティ

人文主義者のアルベルティは、フィチーノのような神秘主義に浸るのでも、公民的ユマニストらのような政治色の強いメッセージを発するのではなく、家族とそのメンバーにとってのユマニスム的理想を提示したことが、最大の特徴である。p227

 

ファン・ルイス・ビーベスと中世末期の貧民救済論

 

ミージロフ家をめぐって 十六世紀ロシアの商工業者たち

 

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気合を入れるにゃんこ

2023-05-07 20:23:48 | 小説

 

今日でゴールデンウイークも終わりです。

 

「ふにゃ、明日からまた気を引き締めて働くのにゃ」

 

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貴族院書記官長 柳田国男

2023-05-06 21:04:28 | ヨーロッパあれこれ

 

貴族院書記官長 柳田国男

岡谷公二 著

筑摩書房 発行

1985年7月10日 初版第一刷発行

 

柳田国男が大正三年から貴族院書記官長に就任してから六年間、辞任までの出来事を追った本です。

 

一 就任

 

二 最初の同志たち

柳田にとって、農商務省と法制局の仕事は決してその学問とは無縁ではなかった。

しかし貴族院書記官長の仕事となると、彼の学問とは結びつかない。

この時期の彼の学問のよりどころは『郷土研究』だった。

 

三 「巫女考」と「毛坊主考」

後半生の柳田は、柳田家に養子に入り、官吏というもっとも堅実な職業について、漂泊とは反対の道を選んだ。

比喩的にいえば、柳田家や官吏という職業は、神隠しに合わないための逃げ場所だったのだ。

彼にとって、漂泊は、誘いであると同時に不安や恐怖の対象であった。いや、不安や恐怖であるゆえに誘いであった。p45

 

四 台湾総督府とのかかわり

 

五 御大礼

大正四年、大正天皇の即位式と大嘗祭、つまり御大礼が行われた。

大正天皇の京都入洛に際し、柳田は大令使事務官の職務に誠心誠意没頭しながらも、『山の人生』の一節に見られるように、サンカの営みを見逃さない彼の姿があった。p68

 

大嘗祭において、柳田が何よりも痛感したのは、「宮中のお祭りは村のお祭りとよく似ている」ということであった。

「豊かなる秋の収穫を終わって後、直に新穀を取って酒を醸し飯を炊き神に感謝の祭りを申す」主旨において、宮中の祭儀と小さな村の氏神の祭りには規模を除いては、何の変りもなかった。p79

六 物知り翰長

人間柳田国男を知りたいと思う者にとって、貴族院書記官長の時期ほど関心をそそられる時期はない。

この時期彼は、学問には全く関係のない人々、むしろそうした営みに携わるむきを「学者先生」として軽蔑する人々のなかに立ちまじって身を処さねばならず、彼の人間は試され、容赦のない批判にさらされたので、そこには後年の彼には見られない、さまざまな姿がみられたはずだからである。

 

「一つ目小僧の話」や「隠里の話」「祭礼と世間」を新聞に連載する柳田

眼前の政治とはなんの関係もないような文章を、貴族院書記官長を現職とする人物が、大新聞に長期にわたって連載するとは、前にも後にも、それほど例のあることではあるまい。p86-87

 

大正五年の新聞のゴシップの中で、国男が「エスペラント語の研究に夢中」となっているのは関心を引く。

一般に彼がエスペラント語に熱をあげるのは、大正十年、国際連盟委任統治委員に就任して、ジュネーヴに住んだ時だと言われているからだ。p89

 

柳田は元来、一高、帝大では第二語学としてドイツ語を履修し、フランス語は知らなかった。

明治四十二年、アナトール・フランスの作品を激賞した後、これからそろそろ仏蘭西語でも研究して原文について読みたいと述べている。

それから大正五年までの間に、アナトール・フランス読みたさに、フランス語を独習したらしい。p90

 

国際連盟委任統治委員時代を別にすると、貴族院時代は、柳田国男が最も頻繁に外国人と交際した時期だった。

その中でもっとも深く交わったのは、イギリス人のロバートソン・スコットとロシア人のニコライ・ネフスキーだった。

『プロパガンダ戦史』の中で、スコットは「イギリスの宣伝秘密本部から派遣された宣伝工作員だった」と断じている。P95

スコットと柳田は、同じ昭和37年、柳田は88歳、スコットは97歳の長寿を全うして死んだ。

 

ネフスキーはいつも中山太郎、折口信夫と一緒に柳田のところにやってきた。

それで播磨風土記の輪講などを行った。p98

 

ゴシップの一つで、柳田は眠気を我慢して先輩の碁につきあうことがあった。後年の柳田からはとても考えられない。p100

 

大和の郡山の金魚の佃煮の談話をする柳田。政界の生ぐさい動きに背を向けた、どこか超然とした姿がある。p102

 

柳田の貴族院書記官長としての功績

・貴族院速記練習所の創設

・貴族院規則の全面的改正

 

柳田の神経衰弱の原因の半分は速記の訂正だった。

当時の速記者は、中学を出ているものは少なく、徒弟制度の私塾で技術だけを叩き込まれただけで、知識は低かった。p104

 

七 台湾・中国旅行

貴族院議長にあまり相談せずに旅行に行ったのも失敗の原因だったが、その時点ですでに親密な接触がなかったのでは?p111

 

国男が島崎藤村と絶交したのは、台湾における山林払い下げ問題がきっかけだった。

自然主義者などと言っておきながら、そんな不正をするのが役人の実際だと思って依頼してきたのが侮辱に感じた。p121

 

広東で蛋民の川舟に乗った。海のジプシーである蛋民の生活に関心を持ち、帰国後家船をはじめとする日本の水上生活者たちの関心へと発展していった。p123

 

八 松岡静雄と日蘭通交調査会

国男の四人の兄弟中、仕事の分野で一番近かったのは次弟松岡静雄だった。

だが分野が近い分、ライヴァル意識があり、批判があり、反発もあった。p131

兄の愛情を求め続ける弟と、その期待を絶えず裏切る兄、という構図が浮かんでくる。p134

その二人が、力を合わせて起こした事業が日蘭通交調査会

この時代に、国男はオランダ語もよく勉強し、辞書や文典の編纂を企てた。p148

 

九 日華クラブ

 

十 確執から辞任へ

世が世なら十六代将軍であり、長年議長の座にあった徳川家達が、書記官長を三太夫か秘書程度に思っていなかったとしてもごく自然である。

しかし人並外れて自尊心が強く、きかぬ気で、どのような人間に対しても直言をはばからない国男に、そういう役割を求めるのはしょせん無理である。p172

図書頭とか帝室博物館長とかいう話もあったが、この二つは森鴎外の兼任するものだった。師にあたる人間の地位を冒すことは、国男にはできなかった。それで役人を辞めた。p180

 

柳田は、書記官長の、慣例の肖像画を、決して描かせなかった。p186

 

徳川家達については何も語っていないが、秋風帖の中の「杉平と松平」大正九年に書かれる。

十六代将軍と言っても、たかが聖坊主の子孫だ、という気持ちか?

 

柳田国男と政治 

柳田の社会観は、彼が最も大きな影響を受けた西欧の文人の一人であるアナトール・フランスのものに近い。

フランスの社会観は徹底してペシミスティックなものだ。

『白き石の上にて』

現代の眼で見たら、ネロやパウロが歴史を動かしたようにみえるが、ネロを稀代の悪王にし、パウロを偉大な福音伝道者にしたのも歴史の流れであり、「社会の大きな変化は気のつかないうちに生まれ、しばらくたってからしか目につかず、その変化に立ち会っている人たちは、それに気づかない。」ことが主題になっている。p202

 

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