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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「磐井の乱」の真偽(三)

2015年07月26日 | 古代史
 「戦争」とは古代においては「土地」及び「人」の奪い合いですから、その結果によって当然「戸数」も「国数」も変動するでしょう。そして『隋書俀国伝』(六世紀末)と『魏志倭人伝』(三世紀半ば)の間においてそれに該当するような大戦争があったかというと、考えられるのは(当然「五世紀」の「倭の五王」以後のこととして)、「六世紀始め」に起きたとされる「磐井の乱」です。『書紀』からはこれ以外には「戦争」とみなせるような大規模な反乱などは見出せません。しかもその内容は「国」を二分するというようなものでしたから、結果として半減したというのは首肯できるものです。

 「磐井の乱」の際には「継体」から「物部麁鹿火」に対して以下の「詔」が出されています。

 「…天皇親操斧鉞。授大連曰。長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。」(継体二十一年秋八月辛卯条)

 この「磐井の乱」時点での分割統治提案においては「筑紫以西」と書かれており、この「磐井」が「筑紫」を中心とした領域に君臨する「倭国王」であったらしいことが推定できますが、これが実現した場合この時点以降「倭国」の統治範囲が大幅に狭まったことと推定できます。(実際に「長門以東」「筑紫以西」というように分割されたかは不明ですが、かなり狭まったことは確かと思われます。)
 つまり「磐井の乱」が実際に起きたとすると、「倭国」王権はかなりの痛手を被り、支配領域はかなり狭まったものと思われることとなります。ただし、逆に言うと「筑紫以西」は元々の「倭国王権」の直接支配領域であり、そこは「継体」(に「擬されている」近畿王権の王者)にも手の届かない領域であったことが推定できるでしょう。そしてそれは「卑弥呼」時点において「女王国以北」は「略載できる」とされた各国の範囲にほぼ重なるものではないでしょうか。

 このように「戦争」により「国数」と「戸数」が大幅に減少させられる事となったと見ると『倭人伝』と『隋書俀国伝』の間の状況の違いについて説明が可能であると思われます。
 このことは「磐井の乱」の真偽にも関わってくるものであり、この倭国の状況の変化を端的に表すものとして「戦争」が考えられることと「磐井の乱」という『書紀』の記述は良く重なるものであり、それは「磐井の乱」は実際にあったと考えるのが相当であることを示すと思われます。
 またそのことから逆に、「本来」の倭国の領域(倭人伝の「三十国」の範囲)としては、「近畿」付近まで広がっていたと考えられることとなり、「明石海峡」付近にその境界線があったと見ることができると思われます。
 それはたとえば「播磨風土記」で「応神」に擬される「近畿王」の「巡行範囲」が「播磨中部」に限られていることからも推定できます。そこでは「播磨東部」と「播磨西部」は巡行の対象から外れており、それは「東部」は以前からの支配領域であるためであり、そのことは 『神功皇后紀』において「筑紫」から帰還する「神功皇后」達を「香坂」「忍熊」両皇子が「明石海峡付近」(播磨東部)で迎え撃ったこととつながっています。つまり、ここに「境界線」があったことを示すと考えられるわけです。
 このようなことから「倭国領域」の境界線としては「明石海峡付近」であったものと見られ、それ以東は「狗奴国」等の「女王」の統治を拒否していた領域であったと考えられるものです。(「応神」の「巡行」とは「狗奴国」側から見てそれを僅かに西側へ広げた行為を意味すると考えられます)
 この時の倭国の領域については「吉備」「出雲」「安芸」「伊予」などがその中に入ると思われ、これらが当時「三十国」の中にあったものと思料します。

 この「播磨東部地区」という場所は「新羅王子」「天之日矛」の伝承においても西から進出してきた彼らの侵攻は「明石海峡」で止まるとされており、「播磨東部」で食い止められたことが推定されますが、その領域は先にこの地に「百済」から移住していた氏族がおり、彼らが中心となって「新羅勢力」と対峙することとなったと見られ、現実として「播磨東部」から「難波」へかけて「百済」からの渡来氏族が多かったとされることと関係があると思われます。
 いずれにしろ各時代を通じて、この「播磨東部」付近に常に「境界」が存在していたことを窺わせるものであり、ここが「女王国」と彼らに敵対する勢力との分水嶺であったことが知られます。

 この「境界線」までが「卑弥呼」の「倭国」であったとすると、この段階での戸数が「二十万戸」程度あったと見られることとなり、「一戸五口」として約百万人が「卑弥呼の倭国」人口であったと思われます。
 このことは「旧百余国」「今使訳通ずるところ三十国」という表現と重ねてみると、総人口はその三倍強の三百~三百五十万人程度であったかと考えられることとなるでしょう。
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