古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『古事記』偽書説について

2018年05月12日 | 古代史

 『古事記』については以前から「偽書説」の立場から多数の論が成されており、その中には全体が「偽書」であるとするものや「序文」だけが偽書であるという説あるいは「序文」については後代の成立であるという説など、多数乱立しているようです。
 このように「偽書」説が「跋扈」している理由は、これも種々言われていますが、結局のところ『古事記』、特に「序文」に書かれた内容と『書紀』の「壬申の乱」を含む『天武紀』がその内容において「齟齬」しているのが最大の理由と考えられます。
 また、「序文」が「並序」として「上表文」の体裁をなしていることの論理性については古田氏により詳細に論究されており、この「上表文」という形式から「後代成立」とか「偽書」というような結論には直結しないものであるのは明らかです。(※1)
 また 「序文」だけが「偽書」ないしは「後代成立」であるという考えもありましたが、「一九七九年」に「太朝臣安萬侶」と書かれた「墓誌」が発見され、その表記が「序文」の署名と同じであったことから、その様な考えに合理性がないこととなりました。
 また「本文」における「上代特殊仮名遣い」という「奈良朝」における「母音」の書き分けが「正確」に行われていることや、「本文」中の万葉仮名に「呉音」が使用されていると考えられることなどからも、「後代成立」や「偽書」というような論が成立しないのは明らかであり、やはり、その成立がかなり「古かった」つまり、奈良時代或いはそれ以前であったという可能性の方がはるかに高いと考えるられるでしょう。

 また、『日本書紀』も「平安時代」に「編纂」(再編纂)されたものと考えられ、「嵯峨天皇」の時代に大幅な書き換えが行われたと見られます。この時代に「中国」の「北朝」の影響を顕著に受けるようになるわけであり、その思想の元にそれまで存在していた『日本紀』を今見るような『日本書紀』に「改定」したものと思料します。
 この『日本書紀』の元となった『日本紀』はそもそも「親百済的」史料であったものと考えられ、それはその原型が造られた段階の「持統朝」が「親百済」政権であった事につながるものです。「元嘉暦」の採用などもその一つでしょう。また「編纂」の参考資料として「百済系資料」が頻繁に引用されたり、明示せずに本文中に取り入れられたりしているのもその意味で傍証となるでしょう。しかし「倭国(日本国)王朝」の没落後それの受け皿となった「新日本国王権」は明らかに「新羅」「唐」に偏倚した王権と見なせますから、『書紀』から「百済」的イメージの払拭に努めたように見受けられるものの、一部に消しきれないものを残しており、このことが『書紀』について「親百済的立場」というイメージを植え付けていると考えられますが、実際には「北朝」的立場から出来うるかぎりの「改定」を行ったというのが正しいと考えられるものです。

 もしこの時点で『古事記』が編纂されたとすると「嵯峨帝」などの「親北朝」意識に沿った為に、このような「親新羅意識」で貫かれるような内容になったと見ることとなりますが、その割りにはその「万葉仮名」の表記にほぼ「呉音」が使用されており、これは「南朝」の系統に属する発音であり、「唐」以降の「北朝」の王権からは「蔑視」されていたものです。
 これらは「平安時代」という時代背景や「嵯峨帝」が行った「北朝」偏重、つまり「漢音」重視という政策の中では際だって「異色」であり、時代の流れと即していないと考えられるものです。この「呉音」は「太安万侶」の出自と関係あるという可能性もあり、そうであれば「時代」としては整合しますから、「偽書」とするには無理が出てくるでしょう。

 ただ、古田氏が批判の対象とされた三浦氏の論(※2)には興味深い観点が指摘されています。それは「序文」の「史書」選定経過と『書紀』の「史書」選定経過は「全く異なっている」というのです。
 氏は以下のように主張します。
「…序文が絶対的な矛盾を抱え込んでいるという理由はどこにあるかということですが、古事記「序」を正しいとみると、天武天皇は、天武紀十年三月に書かれている「帝紀及び上古の諸事」の記定と、古事記「序」にあるような「帝皇日継及び先代旧辞」の誦習という、まったく性格の異なった二つの史書編纂事業を同時に行おうとしていることになり、その点について大きな疑問を感じるからです。…」
 ここで「氏」が主張していることについては、「帝紀及び上古の諸事」と「帝皇日継及び先代旧辞」とが「内容」が異なると言う事なのか、「記定」と「誦習」の違いを問題にしているのかはやや曖昧です。

 以下に「序文」『天武紀』の関係部分を見てみます。

(以下「序文」)
「是に天皇詔りたまひしく、「朕聞く、諸家のもたる帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王家の鴻基なり。故惟れ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流へむと欲す」と。時に舎人有りき。姓は稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒しき。即ち、阿礼に勅語して帝皇日継及び先代旧辞を誦み習はしめたまひき。然れども、運移り世異りて、未だ其の事を行ひたまはざりき。」(読み下しは「倉野憲二校注(古事記)によります)

それに対応すると考えられる『天武紀』は以下の通りです。

「天武十(六八一)年三月丙戌(十七日) 天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ。大嶋・子首、親ら筆を執りて以て録す。」(読み下しは「岩波」の「大系」によります)

 「序文」ではその中で「詔」としてまず「帝紀及び本辞」と言い、次に「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して」と表現しています。当然この二つは同じものを指すでしょう。でなければ「話」が一貫しません。それを行動に移したのが「勅」として「帝皇日継及び先代旧辞」について書かれているのですから、これも同じ問題についてのものと考えられ、同じ人間(天皇)の発言なのですから、この三つが異なると考える「余地」がないのは明らかです。また、これに対応する『天武紀』の「帝紀及び上古の諸事」というものも、推測では同じ内容であると考えられます。つまりいずれも「史書」編纂に必要な内容であり、史書の体裁(「紀伝体」であるか「編年体」であるかなど)の違いに拘わらず、等質の内容であると考えるものです。
 つまり「氏」の主張がそうなのかは不明ですが、「帝紀及び上古の諸事」と「帝皇日継及び先代旧辞」の内容は「異なる」ということは当たらないと考えられますが、「記定」と「誦習」は明らかに異なります。「記定」はまさに「定める」ものであり、「皇子」「諸官人」などの共同作業により「諸史料」を校合して「史書」を実際に「執筆」していく作業を行ったこととなりますが、「誦習」はまず「諸家」にある「帝紀」などについて「阿礼」が「読んで」それを「記憶する」という作業であり、それを「紙に」落とす作業が欠けています。これは「記定」とは全く違う作業と考えられ、それを「氏」が主張しているのなら、確かにその通りと思われます。そして「氏」は「日本書紀の記事と古事記の序文とを並べた時、どちらかがウソをついていると考えざるをえない」とされ、結果的に『書紀』を「真」とし、「序文」を「偽」とすることとなったのです。
 しかし、そもそもそのような「食い違い」ないしは「論理上」の混乱の原因は、上で述べたように『古事記』の編纂が「天武」ではなく、それに先だって「天智」が指示したことであり、そこに書かれた内容も「天智」に関することが書かれているにも関わらず、「天武」であると誤解されたことが原因であると考えられ、編纂を指示した者の「立場」の違いと「時代」の違いがそのまま「史書」の内容に現れているという事と思われます。
 そのように考えれば『古事記』序文を「後代」のものと認定する根底が覆ると考えられます。

 また、「山尾幸久氏」は「古事記についての一問題」(『日本思想史研究会会報』第四号一九八五年七月)で以下のように述べています。

 「古事記の本質をどのように見るかは、いくつかの立場がありうるが、ほぼ疑いのない一つは、それが、全体として天皇縁起の性質をもっているということであろう。(中略)これから始まる新しい現実が、未来永劫に続かねばならない正当性根拠の呈示という性質を、古事記はもっている。その論理が、天皇の地位は神の意思の現実態だとするものである。」

 「今まさに新たに生み出そうとしている律令国家の君主の、正当性根拠を、なぜ古事記は、初源における神勅の存在という形式で発想したのか。」

 ここで「氏」が述べられていることを言い換えると、『古事記』には「初代王」が書かれているという主張とほぼ同一であると考えられます。
 ここで発せられた「問い」に対する答えというものは、『古事記』が「天智」の「革命」を正当化するために書かれた史書であるというものです。つまり、「天智」が「初代」王であるとしたならば、彼の「権威」は「連綿」として続く「倭国王権」には重ならないわけであり、そのため、『古事記』は(その編纂者は)「氏」が言うような「これから始まる新しい現実が、未来永劫に続かねばならない正当性根拠の呈示」を「新た」に行なう必要が「絶対」にあったものです。そして、それは必ず「神勅」という形を取らざるをえないものであったと思われるわけです。

(※1)古田武彦「学界批判 『古事記のひみつ』著者、三浦佑之氏へ」(『なかった 真実の歴史学』第四号二〇〇八年二月所収)
(※2)三浦佑之『古事記のひみつ -- 歴史書の成立』(吉川弘文館、二〇〇七年四月)


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2012/05/26)(ホームページ記載記事を転記)


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