すでにみたように「北緯33度」の地である「鞠智城」付近で「天文観測」が行われたと見られるわけですが、その時期はいつ頃のことでしょうか。
「倭王権」は「肥」の国から遷都し、「筑紫」に都を移し、さらに「難波」に副都を設けたと見られるわけですが、それら遷都の後での観測ということにはならないでしょうから、この「天文観測」は「遷都」以前であると見るべきこととなります。
「天文観測」は「暦」作成の一環であり、その「暦」(つまり「太陰暦」)の導入は「五世紀後半」の「倭王済」の時代であることが推定されているわけですが、その後「倭王武」は「自称」した称号の一部(「開府儀同三司」など)を「南朝」から認められなかったと思われる経緯があります。
(以下「武」の上表文関連記事)
「…濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。」
「順帝昇明二年,遣使上表曰:「…竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。」(『宋書夷蛮伝』より)
これらの記事を見る限り『百済』への軍事権は認められず、また「開府儀同三司」等についても認められなかった可能性があるでしょう。この後「倭国」は「南朝」への朝貢を行わなくなったと見られ、「中国側」の資料に「朝貢記事」が見あたらなくなります。
「南斉書」においても「安東大将軍」から「鎮東大将軍」へと進号しているものの「朝貢記事」はありません。同じく南朝の「梁」の時代に「征東将軍」へというやや変則的な進号をしている(「百済」など夷蛮の国に対して行われている「特進」が見られない)という問題もあり、それが「倭国」が朝貢をしなくなっていたことの反映ではないかという考えもあるようですが(※)首肯できるものです。
つまり「武」の時代に「半島」における権益や「列島支配」の権威の根拠としての「称号」などを「南朝」が認めなかったことが「倭国」朝貢停止の理由として考えられるわけです。そうであれば、その時点以降「暦」の作成(特に日食月食予報)を自力で行う必要性が発生したものと思われ、「天文観測」は必須となったものと理解されます。
この時点付近で「倭国王権」として「天文観測」を始めたとすると、最も蓋然性の高いのは「武」の後半あるいは「次代」の「倭国王」(これは「磐井」か)の時代ではなかったかと考えられる事となるでしょう。つまり年次でいうと「五〇〇年」前後が措定されることとなります。
ところで、古賀氏の研究により「倭国」への仏教伝来が「五世紀」の初めであり、それに関連して、『推古紀』に見える「百済僧」「観勒」の上表記事も「一二〇年」遡上するという可能性が指摘されているわけですが、上の推測から、この「天文観測」記事も同様に遡上するものではないかと思われるわけです。つまり実際には「五〇〇年」付近から「天文観測」を開始したものと思われることとなり、そうであれば「ハレー彗星」記事も「煬帝日食」記事も見られないのは当然のこととなります。
この年次付近で「都」である「肥」の国において「観測」を始めたとすると、その中心的存在である「鞠智城」に「鐘楼」あるいは「鼓楼」とおぼしき「八角形の建物」があることもこの「天文観測」と関連しているという可能性があるでしょう。
この建物」は「時刻」を知らせるという意義において必要なものであったものと思われ、「鐘を撞く」あるいは「太鼓を鳴らす」ものであったとするわけですが、当然その時刻の基準として「漏刻」が必要であり、ここに「漏刻」があったとすれば「天文観測」にも使用できたものと思われますから、この「鐘楼」あるいは「鼓楼」が「天文台」の役を務めていた可能性が高いものと推量します。
この「八角形」の建物はその内部に「柱」が多く空間が確保されておらず、ここで「儀礼」的なことが行われたとは思えないとされます。あくまでも「見晴台」としてのものであったと推量され、「日の出」「日の入り」などの「天文観測」をもっぱら観測していたものではないでしょうか。
(※)菅野拓「「梁書」における倭王武の進号問題について/臣下から「日出処天子」への変貌をもたらしたものは何か ―古田説の検討を中心として」(『大学評価・学位授与機構二〇〇八年十月期学位授与中請(要旨)として』をネットで参照しました)
「倭王権」は「肥」の国から遷都し、「筑紫」に都を移し、さらに「難波」に副都を設けたと見られるわけですが、それら遷都の後での観測ということにはならないでしょうから、この「天文観測」は「遷都」以前であると見るべきこととなります。
「天文観測」は「暦」作成の一環であり、その「暦」(つまり「太陰暦」)の導入は「五世紀後半」の「倭王済」の時代であることが推定されているわけですが、その後「倭王武」は「自称」した称号の一部(「開府儀同三司」など)を「南朝」から認められなかったと思われる経緯があります。
(以下「武」の上表文関連記事)
「…濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。」
「順帝昇明二年,遣使上表曰:「…竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。」(『宋書夷蛮伝』より)
これらの記事を見る限り『百済』への軍事権は認められず、また「開府儀同三司」等についても認められなかった可能性があるでしょう。この後「倭国」は「南朝」への朝貢を行わなくなったと見られ、「中国側」の資料に「朝貢記事」が見あたらなくなります。
「南斉書」においても「安東大将軍」から「鎮東大将軍」へと進号しているものの「朝貢記事」はありません。同じく南朝の「梁」の時代に「征東将軍」へというやや変則的な進号をしている(「百済」など夷蛮の国に対して行われている「特進」が見られない)という問題もあり、それが「倭国」が朝貢をしなくなっていたことの反映ではないかという考えもあるようですが(※)首肯できるものです。
つまり「武」の時代に「半島」における権益や「列島支配」の権威の根拠としての「称号」などを「南朝」が認めなかったことが「倭国」朝貢停止の理由として考えられるわけです。そうであれば、その時点以降「暦」の作成(特に日食月食予報)を自力で行う必要性が発生したものと思われ、「天文観測」は必須となったものと理解されます。
この時点付近で「倭国王権」として「天文観測」を始めたとすると、最も蓋然性の高いのは「武」の後半あるいは「次代」の「倭国王」(これは「磐井」か)の時代ではなかったかと考えられる事となるでしょう。つまり年次でいうと「五〇〇年」前後が措定されることとなります。
ところで、古賀氏の研究により「倭国」への仏教伝来が「五世紀」の初めであり、それに関連して、『推古紀』に見える「百済僧」「観勒」の上表記事も「一二〇年」遡上するという可能性が指摘されているわけですが、上の推測から、この「天文観測」記事も同様に遡上するものではないかと思われるわけです。つまり実際には「五〇〇年」付近から「天文観測」を開始したものと思われることとなり、そうであれば「ハレー彗星」記事も「煬帝日食」記事も見られないのは当然のこととなります。
この年次付近で「都」である「肥」の国において「観測」を始めたとすると、その中心的存在である「鞠智城」に「鐘楼」あるいは「鼓楼」とおぼしき「八角形の建物」があることもこの「天文観測」と関連しているという可能性があるでしょう。
この建物」は「時刻」を知らせるという意義において必要なものであったものと思われ、「鐘を撞く」あるいは「太鼓を鳴らす」ものであったとするわけですが、当然その時刻の基準として「漏刻」が必要であり、ここに「漏刻」があったとすれば「天文観測」にも使用できたものと思われますから、この「鐘楼」あるいは「鼓楼」が「天文台」の役を務めていた可能性が高いものと推量します。
この「八角形」の建物はその内部に「柱」が多く空間が確保されておらず、ここで「儀礼」的なことが行われたとは思えないとされます。あくまでも「見晴台」としてのものであったと推量され、「日の出」「日の入り」などの「天文観測」をもっぱら観測していたものではないでしょうか。
(※)菅野拓「「梁書」における倭王武の進号問題について/臣下から「日出処天子」への変貌をもたらしたものは何か ―古田説の検討を中心として」(『大学評価・学位授与機構二〇〇八年十月期学位授与中請(要旨)として』をネットで参照しました)