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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

近畿王権の冠位制と倭国の冠位制

2025年03月10日 | 古代史
 以前日本国としての初めての遣唐使は白雉五年(六五四年)の高向玄理たちのものであると書きました。この時の遣唐使達が唐の都長安で「東宮監門郭丈挙」から国の名や地理について全員に問いかけがあったことが『書紀』に書かれており、それが「日本国」についての問いかけであったことから、これが「日本国」としての最初の遣使であることを示すものとみたものです。ただしこの年次としては『旧唐書』には何も書かれておらず、その意味で『書紀』の年次を信頼して述べたものですが、セミナーでもこの点について疑念が出されておりました。それは『書紀』の記事の中で「押使」である「高向玄理」らの「冠位」の表記が2種類書かれており、その一つがこの年次より後に制定されたと考えられているものだからです。

「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使『大錦上』高向史玄理。或本云。夏五月。遣大唐押使『大華下』高玄理。大使『小錦下』河邊臣麻呂。副使『大山下』藥師惠日。判官『大乙上』書直麻呂。宮首阿彌陀。或本云。判官『小山下』書直麻呂。『小乙上』崗君宜。置始連大伯。『小乙下』中臣間人連老。老。此云於唹。田邊史鳥等。…」

ここに出てくる冠位の内「大錦上」「小錦下」は『書紀』では「六六四年」に制定されたという「冠位」の中に初めて現れます。

「(六六四年)三年春二月己卯朔丁亥。天皇命大皇弟宣増換冠倍位階名及氏上民部家部等事。其冠有廿六階。大織。小織。大縫。小縫。大紫。小紫。『大錦上』。大錦中。大錦下。小錦上。小錦中。『小錦下』。大山上。大山中。『大山下』。小山上。小山中。小山下。『大乙上』。大乙中。大乙下。『小乙上』。小乙中。『小乙下』。大建。小建。是爲廿六階焉。改前華曰錦。從錦至乙加六階。又加換前初位一階。爲大建。小建二階。以此爲異。餘並依前。…」

 これに対し「大華下」はそれ以前の「大化五年」(六四九年)の冠位制に現れるものです。

「(六四九年)大化五年…二月。制冠十九階。一曰。大織。二曰。小織。三曰。大繍。四曰。小繍。五曰。大紫。六曰。小紫。七曰。大華上。八曰。『大華下』。九曰。小華上。十曰。小華下。十一曰。大山上。十二曰。『大山下』。十三曰。小山上。十四曰。『小山下』。十五曰。『大乙上』。十六曰。大乙下。十七曰。『小乙上』。十八曰。『小乙下』。十九曰。立身。」

 これで見るようにそれ以外の「大山下」以下は両方に現れるため、いずれの冠位かは不明と言えます。本来は年次から言うと「大華下」が正式の冠位と言えそうですが、なぜ後年になって制定された冠位がここに書かれているのが問題となっているわけです。つまりこの冠位の方が正しいとすると遣唐使として派遣された年次が『書紀』に書かれたものとは実際には異なっていたのではないかという疑念につながるものであり、それは即座に「日本国」としての初めての遣唐使の派遣年次につながり、『三国史記』や『新唐書』に書かれた「六七〇年」という年次が「日本国」としての初めての「遣唐使」ではなかったのかという一部の意見の根拠となっているようです。
 これは確かに一見すると「矛盾」であり、無視できない性質のものです。これについての私見は「近畿王権」には独自の「冠位制」があったというものです。つまり元々「近畿王権」は「倭国王権」の直轄統治領域の外であり、「諸国」(附庸国)として存在していたと思われます。このような場合「本国」つまり「直轄統治領域」の内部の「制度」等をそのまま「諸国」で採用しなければならないという制約はなかったものであり、「職掌」や「冠位」などについては基本的にその「諸国」の中である程度自由に決めて良いというものではなかったでしょうか。「封建制」というものはそもそもそういう特徴を持っていたと思われ、「直接」統治するという際の事情とは大きく異なっていたものと思われます。
 「直接統治」する場合は国中が同じ制度の中で行政が執行されるものであり、そのような場合と「封建制」における緩やかな統治とは大きく異なるものであったとみるべきです。すると「諸国」であった時点の「近畿王権」にも独自の制度があり、また独自の冠位制があったとみるのが自然です。それが「倭国」の東方政策により難波に拠点を設け東国を含めた直接統治をしようとした際にそれまで「附庸国」であった「近畿王権」が「直接統治領域」に入ったことから、彼らに対し「倭国王権」の内部つまり以前の直接統治領域で行われていた「官位制」を適用したために改めて冠位が与えられたとみられ、それが「大華下」という「冠位」であったと思われるわけです。
 この「冠位」は「大錦上」に比べ一段階低い冠位となっており(「大錦上」が七番目なのに対し「大華下」は八番目)、「新たに「版図」つまり直接統治領域に入った勢力に対し彼らの内部で行われていた冠位よりも意図的に低い冠位を与えたことが推定できます。これは「近畿王権」の冠位が最高位のものが「倭国」では二番目であったことの反映と思われます。つまり近畿王権№1は倭国王権№2というわけです。当然ともいえるものですが、「倭国」(筑紫王権)の近畿王権に対する一種の差別的政策でもあったことを示すとも言えるかもしれません。(このあたりもこの時の倭国王の政策に対して反感を買う一因であったかもしれません)つまりこの段階で「旧近畿王権」の関係者は二種類の冠位を持っていたという可能性が考えられるわけです。
 つまりこの「大錦上」という「冠位」がここに書かれているのはこの段階ですでに彼らが保有していたものだからだと思われます。これを示すのが「六五九年」に派遣された伊吉博徳」達の遣唐使達であり、彼らは「小錦下」「大山下」という冠位を持っていたことが『伊吉博徳書』に書かれています。

(六五九年)五年…秋七月朔丙子朔戊寅。遣『小錦下』坂合部連石布。『大仙下』津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。『小錦下』坂合部石布連。『大山下』津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。…」

 彼らはこの時唐皇帝から「日本国天皇」について消息を聞かれており、そのことから彼らは「日本国」つまり「難波日本国」の関係者と推定しました。つまり「博徳」達旧近畿王権関係者はすでにこの「六六四年」以前から「大錦上」のような冠位を授与されていたと思われるわけです。その後「天智」つまり「難波日本国」が「倭国」つまり「筑紫日本国」のいわば「滅亡」により政治的・軍事的空白となった「筑紫」地域(つまり「倭国」)を含む列島を統一したことから改めて本来の自己の制度である「大錦上」を含む制度を列島全体に(というより「旧倭国」領域に対し)敷衍したのが「六六四年」であったと思われます。

 「大華上」等が「倭国」つまり「筑紫日本国」の制度であると思われるのは「百済を救う役」で派遣される軍の第一陣が「大華上」等の冠位を持っていることから言えると思われます。

(六六一年)七年…八月。遣前將軍『大華下』阿曇比邏夫連。『小華下』河邊百枝臣等。後將軍『大華下』阿倍引田比邏夫臣。『大山上』物部連熊。『大山上』守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使『大山下』狹井連檳榔。『小山下』秦造田來津守護百濟。

 このうち「阿倍引田比邏夫」は『公卿補任』によれば「斉明朝で筑紫大宰」であったとされており、まだ「倭国」つまり「筑紫日本国」が健在時点で「大宰」とされていますから、明らかに「倭国」側の人間であり、その彼が「大華下」とされていることからもこの「大華下」という冠位が「倭国」の制度であったことが知られます。

慶雲二年条 中納言 従四位上  阿倍朝臣宿奈麿 四月廿日任。不経三木。/後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子。」(『公卿補任』より)

 ただしここでは「大錦上」という冠位であったと記されていますが、彼はこの「百済を救う役」で戦死したと考えられていますから、このような死後追贈の場合は最終冠位より高くするのが通例ですから、「大華下」より一段高い「大錦上」として「難波日本国」の制度を適用したものと推測します。
 他にも『公卿補任』からは「難波朝」において「大華上」という冠位が行われていたことが覗えます。

大宝元年条 大納言 正三位 石上朝臣麿   三月廿一日任。元中納言。同日叙正三位。/雄略天皇朝大連物部目之後。難波朝衛部『大華上』物部宇麿之子。

大宝二年条 参議 従四位上 高向朝臣麿   同日〈五月十七日〉任。/難波朝刑部卿『大花上』国忍之子。

 ここで言う「難波朝」が「倭国」の東方進出に伴うものであり、近畿を含め東国を直接統治しようとした「朝廷」を指すものであるのは明白で、その「難波朝」において「大華上(大花上)」という冠位制が施行されていたのは、それが「倭国」の制度であったことを示すものです。

 ちなみに先の記事で「大華下」という冠位を持っていた「安曇比羅夫」が次の記事では「大錦中」と言う冠位に変わっているのが注目されます。

(再掲)
(六六一年)七年…八月。遣前將軍「大華下」阿曇比邏夫連。「小華下」河邊百枝臣等。後將軍「大華下」阿倍引田比邏夫臣。「大山上」物部連熊。「大山上」守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使「大山下」狹井連檳榔。「小山下」秦造田來津守護百濟。

(六六二年)元年…夏五月。大將軍「大錦中」阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。

 すでにこの時点で「倭国王」たる「薩夜麻」が捕囚の身となっており、彼に指示を下せる立場の人間が「倭国」内にはいない中で誰の指示により出撃するのかと言えばそれは「筑紫」に出張ってきていた「難波日本国」の「天智」以外なく、また「天智」にしても自らの支配下にないものに命令を下すことはできないわけですから、「阿曇比邏夫連」も「天智」の指揮下に入ることを選んだものと思われ、「天智」により冠位を授与して出撃させたとみれば矛盾はないと言えます。
 ちなみに「大華下」と「大錦中」は同じく上から八番目であり、冠位の高低がありませんが、これは一つに「天智」が自らとその王権をすでに実体がなくなった倭国と同等の地位に立ったという意識からのものと思われます。また、とりあえず冠位を付与したという体の緊急的措置としても首肯できるものです。

 このように「近畿王権」には「倭国」の直接統治領域に入る前から「冠位制」が独自に敷かれていたと考えられるわけですが、そのことは即座に「官位令」的なものの存在を措定させます。つまり「官位令」に基づき「冠位制」が敷かれていたのではないかと考えられるわけであり、そのような「令」の集大成としての「近畿王権の制」というものがあってしかるべきではないかと思われるわけです。ちなみに「倭国」側にも全く同じことがいえ、「倭国律令」とでも言うべきものがこの時点であったとして何も不思議ではないといえるでしょう。

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