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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「磐井の乱」の真偽(二)

2015年07月26日 | 古代史
 『倭人伝』段階に比べ『隋書俀国伝』では「戸数」も「国数」も半減していることとなったわけですが、そこから考えて、一国あたりの「戸数」には変化がないと考えられることとなりますが、それは自ずと一つの「国」の広さにも大きな変化がなかったであろう事が示唆され、『隋書』に記載されている「国」は「倭人伝」に言う「国」(クニ)と大きな差がないことを示すものです。それは『常陸国風土記』などの表記からも推察され、「広域行政体」としての「国」の成立は「遣隋使」以降であることがここでも強く推定されることとなります。さらにそれは各国における一戸当たりの「口数」にも変化がなかったであろうという推定にもつながるものです。
 『倭人伝』以降『隋書俀国伝』までに極端に「口数」が増加するような大家族制が成立していたという推定が成立する別途証明がない限り、「口数」も変わらなかったであろうと考えられるわけですが、そうであれば当然「総人口」においても「半減」したものと考えるべきであろうと思われることとなります。
 それはまたこの「三世紀以降七世紀」まで「戸籍制度」に大きな変化がなかったであろうということからもいえるものと思われます。たとえば、「正倉院文書」によれば「筑紫」や「常陸」などでは「両魏式戸籍」に類似する様式が確認できますが、さらに以前に国内で行われていたものは、「西晋時点付近」に起源がある「西涼式」といわれる戸籍でした。
 この戸籍は「美濃」地方で行われていたことがやはり「正倉院文書」から確認できますが、その起源から考えて「美濃」だけではなく「倭国内」ではかなり以前から行われていたことが推定されます。
 また「両魏式」の戸籍が「北魏」以降「隋」まで続いていたものであることを考えると、それが倭国内に伝来したのは「遣隋使」によるものであり、「六世紀末」から「七世紀初め」のことではなかったかと考えられることとなりますが、そのことから逆に「三世紀」から「七世紀」までの「倭国」では同じ戸籍制度(西涼式)が継続していたという可能性が高いこととなります。

 一戸あたりの「口数」が変化したとすると、そのためには兵役制度や班田法など、「戸籍」と連動した制度改定があったものと見なければなりません。それがなければ基本的には「家族制度」にも変化はなかったと見るべきだろうと思われます。
 「家族制度」というものは「戸籍」を通じて「社会全体」につながっているものであり、「社会」はそれを規定する「律令」の存在で変化するものと考えられるものですから、「村落」に関わる制度や「兵士」などを規定した軍制の変化など、社会を規定する要素の変動がない限り、その構成単位である「戸制」も変化しないと考えらます。(というより『隋書』や『二中歴』において「年始」以前は「結縄刻木」であったという趣旨の記事があることから考えて、「卑弥呼」「壱与」の時代以降かろうじて行われていた中央集権的制度や「律令」らしきものは「崩壊」したものと思われ、「戸籍」なども「中央」の指示によって作られるというようなことはなくなっていたと思われますが、他方「倭国中央」ではなく「諸国」には当時行われていた「戸籍制度」である「西涼式戸籍」というものがあたかもタイムカプセルに入ったように保存されていたという可能性が高いと推量します。それは「美濃国」など諸国における「地方王権」が独自性、独立性の元に存立していたことを示唆するものであり、それが後に「両魏式」制度を受容しない土壌を作っていたものではないでしょうか。

 また生産性が上がって「単位収量」が増加した結果、人口増につながりそれが「口数」の変化になるという考え方もあり、それは一面真理ではあるものの、この当時全員が農民であるわけでもなく、日本は海岸線が非常に長い国ですから、多数の「漁民」もいたわけであり、近代日本においても「漁村」あるいは「半農半漁」という村落は非常に多かったと見られるわけですから、「農業生産性」の向上が仮にあったとしてもそれが「人口増加」には直結しなかったと思われます。また、仮に関係があったとしてもそれが一概に「口数」の変化(増加)になるとは限らないと思われます。さらにそのような収量の増加ということは必ず「班田制」など制度の改定や充実に伴うものと思われ、そのようなものが「遣隋使」以前にはなかったであろう事を考えると、一戸あたりの口数の増加に直結するような収量増大は起きていなかったと見るべき事となります。
 「家族」の構成というような基本的構造の変化は国家の骨格に関わることであり、何らかの外圧など「爆発的要素」がない限り、「準静的変化」(ゆっくり変化していく)の範囲に留まると考えられます。
 少なくとも、「三百年間」で「口数」は大きく増加したにもかかわらず「戸数」には変化なしというような事態ははなはだ考えにくいと思われるわけです。

 そう考えると、この『隋書俀国伝』時点で「戸数」が減少している理由を社会制度や生産性というようなものとは異なる次元の中で捜さなければなりません。そのような観点から見て、可能性があるのは「天変地異」と「戦争」ですが、人口が半減するような天変地異が起きたと考えるのは少々困難です。「地震」「津波」などによる場合は「海岸線」や低標高地帯に居住する人々には多大な影響はあるでしょうけれど、それ以外であれば影響はまだしも小さかったと考えられますし、ボーリング調査などから瀬戸内沿いにこの時代に巨大地震があった或いはそれに伴う巨大津波があったという証拠は見つけられていません。それよりも原因として合理性があるのは「戦争」ではないでしょうか。

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