古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について(再度)つづき

2024年08月13日 | 古代史
以下は前回の投稿の続きというか補足です。
 
筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について(続き)

 「庚午年籍」については『続日本紀』に「筑紫諸国」の「庚午年籍」に官印を押したという記事が出てきます。

「(神龜)四年(七二七年)…
秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」

 ところで、通常、戸籍には国印が押されていますから、この七百七十巻の筑紫諸国の「庚午年籍」には旧倭国王権時代の各地の国印(筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後)は押されていたと思われますが、当時「筑紫諸国」以外(直轄領域以外)では「諸国印」が存在していたかが問題となるでしょう。なぜなら「評制」下の諸国の国名は「二字」ではなく「三字」あるいは「四字」のものもあったからです。(「上毛野」「下毛野」「遠水海」「吉備道中」「波伯吉」「无耶志」などです。)
 これらについては後に二字に国名が統一(変更)されるまで継続したものとみられ、当時国印が作られていたとするとこの通りの国名で造られたものとみるべきですが、実際には「印」のサイズは規格化されていたと思われ、鋳造する際の「型」が決まっていたとすると、各国名で「字数」が異なるとすると技術的に対応が困難ではなかったかと思われます。
 ところで「奈文研」の評木簡データベースを渉猟すると年次と国と評がそろって記載されるもののうち最も古いものは以下のものです。

「乙丑年(665)十二月三野国ム下評大山 五十戸 造ム下部知ツ従人田部児安 032 荷札集成-102(飛20-29 石神遺跡」

 これによれば「庚午」の年(六七〇年)以前に「国」―「評」という階層制度が構築されているようではありますが、これ以前は「評」から始まる例(評-五十戸)が非常に多く、この時点では各地では「国」制がまだ試行されていなかったことが推定できます。すると当然この時代には「国印」はないこととなりますが、上に見るように「庚午」の年の付近で「国」が「三野国」など一部の地域で施行されるようになったとみられ、そこでは「国印」が鋳造されたとみることも可能ではありますが、いずれにしても現存する「大宝二年戸籍」のうち「三野国」に「国印」が押されていないという事は、それ以前の「庚午年籍」段階でも「三野国」には「国印」がなかったこととなり、それは「筑紫諸国」を除き他の諸国には「国印」がなく、押印されていなかったという可能性が大であることを示唆します。
 そもそも公権力の行使の手続きとしての文書行政に押印が必須であるとするなら、「筑紫」(ここでは「太宰府」)にだけ公権力があったという事になってしまいます。つまり当時「近畿」には「公権力」がなかったということになるでしょう。

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