古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「天智」と「受命改制」―改暦と年次のずれについて

2024年08月12日 | 古代史
  ②「改暦」の有無

 ところで、「天智紀」において、倭国と「唐」が直接戦った「白村江の戦い」の年次が『旧唐書』などと食い違っているのがわかります。『旧唐書』などの中国側史料ではこの年次が「六六二年」であるのに対し『書紀』では「六六三年」となっており、一年ずれているのです。

西暦  現暦干支 異暦干支  記事・出典
六六二  壬戌   癸亥  白村江の戦い『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』
六六三  癸亥   甲子  白村江の戦い『日本書紀』

 この東アジア全体の共通点とも言うべき事柄が一年「日中」の記録で食い違っているのは、不審ですが、それが「構造的」なものであると言うことも考えられ、その場合その他の記事にも食い違いがあるのではないか、と云う強い疑いを生じます。これに関してはすでに「正木氏」の論(「亡国の天子薩夜麻」)において「半島」への出兵が『書紀』の年次より一年早いことが指摘されており、確実といえます。さらに「劉徳高」の来倭記事などにもいえることでもあります。

(六六五年)四年…
九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉徳高等等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍朝散大夫上柱國郭務悰。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。
冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。
十一月己巳朔辛巳。饗賜劉徳高等。
十二月戊戌朔辛亥。賜物於劉徳高等。
是月。劉徳高等罷歸。
是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。

 ところで、この時の「劉徳高」達は実は「泰山封禅」への参加命令も伝達に来たものと考えられ、それに応じて、「薩夜麻」本人とは別に「参列」するための人員を急遽派遣することとなったと考えられます。 
 この「泰山封禅」は「六六六年正月」に実施する、という詔が出されたわけですが、それが出されたのは「六六四年七月」とされています。この月の「朔日」(一日)に出されたものですが、当然周辺諸国も含め多数の参加者が想定され、またそうでなければ「権威付け」にならないわけですから、多くの国に「泰山封禅」開催を知らせる「使者」を出したものと考えられます。
 当然倭国にも「来るはず」であり、それが「劉徳高」の来倭であったと考えられるのですが、その年次が「六六五年七月」というのでは、余りに遅すぎるといえます。
 倭国のように海を隔てて「遠絶」した地域や、「西域」からも参加が考えられるわけですから、これらの国々に対しては「早期に」使者を派遣する必要があるはずですが、倭国への到着が「六六五年」では「高宗」が詔を発してから一年以上経過していることとなり、まさに「遅きに失する」こととなってしまいます。直後の「十月」にはすでに「高宗」に従駕する行列が始まっていますから、全く間に合わないと思われます。

(再掲)
「(天智称制)四年(六六五年)是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

 この記事は「是歳」条記事であるものの、これはその記事の中でも触れられているように「唐使」を送る役割であったと思われますから、配列から考えて「十二月」のことであったのではないかと考えられ、そうであれば「守君大石等」達は「泰山封禅」の儀式そのものにさえ間に合ったかどうか疑わしいものです。このような「間に合わない」使節派遣などあり得るはずがありません。
 この推論に従えば、「劉徳高」の来倭の日付は「六六五年」ではなく、「六六四年」であった可能性が高いと考えられるものです。
 「高宗」は「倭国」等遠絶した地域からも参加が可能なように「時間的余裕」を考え「六六四年(麟德元年)七月朔」にこの式典開催を宣言しているのです。つまり、「封禅の義」まで、約一年半の猶予があるわけであり、この詔勅の「直後」に各国に使者が発せられたと考えるべきでしょう。まさに「劉徳高」の来倭はそのタイミングで為されたと考える方が正しいと思われます。
 このことからも『書紀』の年次が、「唐」に比べ「一年」の「ズレ」があることが推定できます。
 中国の歴史上「封禅」の規模は皇帝の「即位の儀式」さえも超えるものでした。そのため、「唐」の高宗はこの儀式を自身の威信をかけたものにするために、周辺の「唐に封ぜられた」諸国王も含め大量招集をかけたものでしょう。そのような中にははるか遠方の国もあるわけですから、かなり余裕を持った伝達でなければ間に合わないという可能性も出てくるため、特に遠方の国については「迅速」な伝達を行ったものと考えられます。
 この時派遣されたという「劉徳高」の官職名は「沂州司馬」というものですが、「沂州」が現「山東省」付近の事であり、遣唐使船などが往復に利用する港があるところですから、倭国へ使者を送るのには「最適」「最短」の場所にあると言えます。(だからこそ彼が選ばれたものでしょうか)
 『書紀』の日付が一年ずれているとすると「劉徳高」は「対馬」に「六六四年」の「七月二十八日」についたこととなり、「高宗」が「詔」を発したその月のうちに来た事となります。(事前に詔の内容が内示としてあった可能性もあるでしょう。この場合はそれ以前に準備はすでにされているわけです)
 また、当時の「唐」の船の構造も倭国の船に比べ外洋航海に適しており、(竜骨構造の採用など)ここから船出したとすると、修正年次の「六六四年七月二十八日」の到着も可能でしょう。
 実際の「遣唐使船」の行程を「六五九年」に派遣された「遣唐使」である「伊吉博徳」の記録である「伊吉博徳書」で確認してみると、「遣唐使」として訪れていた「唐」から「六六一年」に帰国した際には「四月一日越州から出発、四月七日『ちょう岸山』の南に到着、八日暁西南の風に乗って大海に乗り出したものの、『漂流』し、九日後(四月十七日)『耽羅』に到着した。」とあり、「劉徳高」の出発地である「沂州」にほど近い「『ちょう岸山』の南」から出航しています。そこから「最短ルート」を取ったものでしょう。この時の倭国の遣唐使船は、多少「彷徨」したようですが、「耽羅」(済州島)まで九日間で来ています。「劉徳高」が同じような、東シナ海横断ルートを取ったとすると、この日数と大きくは違わなかったのではないでしょうか。
 特にこのように急いで倭国に使者を送ったのは、もちろん「倭国」との間の「戦争状態」を集結させるためであり、「泰山封禅」に「捕虜」を連れて行くわけにはいかないわけですから、「倭国王」の出席を促すと共に至急「降伏」の意思表示を示すように督促したものと推量されます。(条件付き講和であったと思われます)
 「倭国」との折衝を通じて「百済禰軍」達はその後「捕虜」となった「高麗」地から連行されていたと思われる「百済」内某所(熊津城内か)の「薩夜麻」と、引率して来た「守君大石」達を引き合わせた後、「薩夜麻」達を「劉仁軌」に引き渡したものと推量します。
 その後「劉仁軌」は「薩夜麻」を含む「百済王」「耽羅国王」などを「船」で「泰山」の麓まで運んだとされます。

「旧唐書劉仁軌伝」
「麟德二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

「冊府元龜」
「高宗麟徳二(六六五)年八月条)仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。」

 この時「劉仁軌」は占領軍司令官として「百済」(熊津都督府)に滞在していましたから、「百済王」はもちろん「倭国王」もこの時点付近で「劉仁軌」の支配下に入ったものと考えられ、彼らを船に乗せて「黄海」を横切り、「泰山」の麓の港まで「連行」した、というわけです。
 ここで「高宗」は間近に「東夷」の国王達を見て、「東夷」が平定されたことを実感して、大変喜んだものと思われます。
 「劉徳高」の来倭の結果「派遣」されることとなった「守君大石」「坂井部石積」等は「劉徳高」達の帰国に併せ、「熊津都徳府」に向かったものと考えられ、そこで「薩夜麻」と合流したものと推量します。この後彼らはこの「倭国王」達の「高宗会見」などにも同船して向かったものと考えられます。
 このように「謝罪」を承けた「高宗」は「倭国」が「絶域」(遠距離)であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、「百済王」達にそうしたように「謝罪」と「降伏」を受け入れたものとみられます。ただし、処分は下され「千里の外で三年間の強制労働」というものが適用されたものと思われます。これは実質的には「熊津都督府」至近で「軟禁」状態になったことを示していると思われ、いってみれば「経過観察」状態に入れられたものであり、「反抗的態度」や「謀反」などの気配がないか観察されていたのではないかと考えられます。
 また、この「劉徳高」の倭国への遣使が「唐」の史書にありませんが、これは「泰山封禅」の式典に参加する各国への使者が余りに多く、記録上書ききれないため省略されたのだと考えられます。この時は国内全州、及び「柵封国」、「友好国」など非常に多くの参加者があったようであり、『資治通鑑』にも以下の文章があります。

『資治通鑑』「六六五年」(麟德二年乙丑)「冬十月丙寅上發東都從駕文武儀仗數百里不絶。列營置幕彌亙原野。東自高麗西至波斯烏長諸國朝會者各帥其屬扈從穹廬毳幕牛羊駝馬填咽道路。」

 東西の各国からの使者や高官がその随行員を率いて「唐」の「高宗」に「從駕」し、その長さが「数百里」に及んだように書かれています。当然これに参加した彼ら「東西諸国」からの使者なども「唐」からの「使者」によりこの式典に来るよう指示なり招待なりを受けたものと思われます。しかし、このような各国への「唐使」派遣記事は唐側の史書には記載されていないのです。
 ただし、上の『資治通鑑』記事では「東自高麗」と書かれ「新羅」や「倭国」などのことが書かれていません。一見彼らは「泰山封禅」に参加しなかったかのようですが、これは「東都」(洛陽)から「泰山」への陸上移動の様子であり、「倭国王」達はそれとは別に「船」で直接「泰山」(太山)へと「劉仁軌」により運ばれていたものですから、この「従駕」の列には書かれていなくて当然であるわけです。
 また、これに参加したと考えられる「境部石積」などの帰国の日時も「一年ズレ」の対象記事と考えられます。

「(天智称制)六年(六六七年)(中略)十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この年次についても「修正」の結果「一年前」の「六六六年」十一月となり、従来「六六六年」正月に行われた「泰山封禅」から二年近くも経過した「六六七年」十一月の帰還というものがはなはだ不自然であり、その理由が不明であったものが解消されます。
 つまり、「守君大石」「坂合部連石積」らについての「泰山封膳」への出発が「六六四年」十二月、「泰山封禅」が約一年後の「六六六年」正月、帰国がさらにその約一年後の「六六六年」十一月となれば、使者の往還に要する時間もきわめて自然なものになります。(続く)
コメント    この記事についてブログを書く
« 「天智」と「受命改制」 | トップ | 「天智」と国号変更について »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古代史」カテゴリの最新記事