古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「天武」と「薩夜麻」

2018年05月20日 | 古代史

 『書紀』に書かれている「天武」の「天渟中原瀛眞人天皇」という諡号にはいくつかの疑問とヒントが隠されています。まず「天」と書かれており、これは「阿毎多利思北孤」と同様「あめの」あるいは「あまの」と読むべきものでしょう。『旧唐書』には倭国王は歴代「天」を姓としている、と書かれています。このことは「天武」が「倭国王」である、という証明とも言えます。

 また「渟」は「ぬま(沼)」の語幹と同じであり、「水」に関連していますが、「湖沼」のような流れがあまり強くない、緩やかなものを指しているようです。また「瀛」は「沖」と同じであり、「隠岐」と同じ海岸線からかなり離れた(水平線の向こう)場所を指す言葉です。このように「水」に強く関係している諡号ですが、具体的にはどこの海または湖沼を指すものでしょうか。彼の人生の中で、どこかの海や沼などと関連した事績がなければこのような諡号とはならないと考えられます。
 伝えられる天武の「皇子」時代の名前は「大海人」というものであり、ここでも明らかに「海」に強く関連する名前となっています。しかし、彼のどの業績・行動範囲を取ってみても「海」には全く関係がありません。(もっともほとんど業績などが書かれているわけではありませんが)
 
 「薩夜麻」であればどうでしょう。彼は「筑紫の君」と呼ばれています。「筑紫」の本拠地は「博多湾岸」であり、この場所は「玄界灘」に面しています。また私見では彼は「伊勢王」の子供と考えられます。すでに述べたように「伊勢」は元々「肥後」の地名であり「伊勢の海」というのは「有明海」ないしは「八代海」の名称であったと考えられます。
 また「天武」は「水沼」の地に「遷宮」したらしいことが『万葉集』から読み取れます。

壬申の年の乱平定すぬる以後(のち)の歌二首
四千二百六十番
おほきみは かみにしませば あかごまの はらばふたゐを みやことなしつ
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都

右の一首は大将軍贈右大臣大伴卿作れり

四千二百六十一番
おほきみは かみにしませば みづとりの すだくみぬまを みやことなしつ
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ
(作者未詳らかならず)
大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通

右の件の二首は天平勝寶四年二月二日に聞きて 即ち茲(ここ)に載す。

 この「水沼」という地名は「和名抄」など見ても全国でも「筑後」にしか存在していませんでした。『書紀』では「神代紀」に「天照大神」の「三人の娘」(宗像三女神)と共に登場する人物に「水沼の君」がいます。「宗像三女神」も「水沼の君」も「九州」に深く関係した人物です。当時の「水沼」は文字通り、湿地帯であったものであり、大小の「沼」が点在していた場所であった模様です。(海岸線も近くにあった模様)
 以上のことは「天武」の歌と考えられている「二番目」の歌で詠まれている場所は「筑後」であり、その場合対象人物は「薩夜麻」の何代か前の先祖ではないかと考えられますが、当然その子孫と考えられる「薩夜麻」にも深く関係した地名と思われます。
 一番目の歌は「薩夜麻」と「壬申の乱」との関係を歌っているものであり、近江朝廷を滅ぼした後「奈良」の「田井」という地名に都したという記事ですが、この字地名が「藤原宮」至近にあるものであって近畿の地名であることが確実になっています。ただし、すでにそれ以前より「難波京」が存在していたわけですから、「田井」には「離宮」の様なものを造ったものと推察されます。

 また「諡号」の中の「真人」というものは「八色の姓」の中に存在するものであり、これは「難波朝廷」が制定した「制度」と考えられ、「倭国王」と「倭国王家」に一番近い立場の人間に対して「真人」という「姓」を与えたもののようです。「天武」がこの「称号」を与えられたのはまだ「皇子」の時代と考えられ、この時代は「皇子」もこの「制度」に組み込まれていたものではないでしょうか。

 『書紀』によれば「薩夜麻」は「壬申の乱」の前に帰国しています。しかし、以降の消息は『書紀』には書かれていませんが、特に「死去」したというような情報がないところを見ると、「壬申の乱」当時存命していたと考えるのが妥当と思われます。
 特に彼に対して「敗戦」の責任を問うて「死」を賜ったと書かれているわけでもありません。「流罪」になったというわけでもありません。ということは「筑紫の君」として「復帰した」と考えるのか妥当なのではないでしょうか。

 ところで、「壬申の乱」では「大海人」は「吉野」に「隠棲」したとされています。しかし、この「吉野」が「奈良」の「吉野」ではなく、「佐賀」の「吉野ヶ里」である、とすると、「吉野ヶ里」は(現在は「佐賀」ですが)当時「筑後」にあったわけであり、「筑後」は「筑紫の君」の統治下の領域であるわけですから、「大海人」と「薩夜麻」が別人であったとしても、すくなくとも「薩耶麻」の「了解」や「支援」なしに「大海人」が立て籠もったり、軍備を整えたりするというようなことは「不可能」であることとなります。
 しかし、『書紀』の「薩夜麻帰国」という記事の直前が「大海人吉野入り」なのですから、この記事配列には「意味」があると考えられるものです。つまり、『書紀』の上ではこの両者は「同時」には出てこないように配列されており、それはこの両者の間に深い関係があることを示します。
 「薩夜麻」は帰国してまもなく「倭国」の情勢を把握し、軍事的圧力を「近江朝廷」にかける必要があることを理解したために、吉野に軍事力を整える必要を感じ、行動したということではないでしょうか。記事の意図するところはそういうことであると考えられるものです。
 
 また、「壬申の乱」の際に「栗隈王」及び「子息」とされる「三野王」「武家王」が「近江朝廷」からの参戦指令に従わなかったとされています。
 以下『書紀』の「壬申の乱」の記事より抜粋

「(佐伯連)男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。」

 このことはある意味「当然」であると考えられます。「太宰率」であったとされ、また「太宰府」に所在していたとされる彼らは「筑紫の君」の支配下にあったものと考えられるからです。
 そもそも「筑紫の君」という存在と、当時存在していたとされる「太宰府」あるいは当時太宰であった「栗隈王」の間になんの関係もないことはあり得ません。当然「筑紫の君」の統治領域は「太宰府」の存在を包括していると考えざるを得ないからです。
 「壬申の乱」時に「近江朝」から「参戦指示」が出された際にこれを「栗隈王」が拒否するシーンが『書紀』にありますが、この時の情景から考えて彼は「赴任」しているというわけではなく、「地場」の勢力としてこの「筑紫」に存在していたと考えられ、彼の「本拠地」ともいうべき場所は実は「筑紫」であったと考えられるものです。
 「近江朝」(大友)は彼について指示に従わない可能性を感じていたわけですが、それは「彼」には「天子」と仰ぐべき存在が「別にいた」という事を示すものであり、彼が「筑紫」の勢力であるとすると「筑紫君」と称された「薩夜麻」の配下の人間であるのは当然であり、いかに「補囚」からの帰国であったとしても「大義名分」の重さはいささかも変わることがなかったと考えられ、「近江」側に援軍するということはあり得なかったものであり、それを「近江朝」では危惧し、また予想していたものと思料します。その彼と「以前から」友好的であったという『書紀』の記述からみても「大海人」は「筑紫」に勢力を張っていたという可能性が強いといえるでしょう。

 さらに、「大海人」が「筑紫」に関係が深かったと考えられるのは「天武」の葬儀において「壬生」として「誄」を奏しているのが「大海氏」であり、彼は「阿曇氏」と同族であったとみられる事からもいえます。

「(朱鳥)元年(六八六年)…九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。…」

 彼を含む「大海(凡海)氏」は『新撰姓氏録』(右京神別下など)では「阿曇(安曇)氏」と同祖とされており、その「阿曇氏」の本貫が「筑紫」にあったことは常識ですから、当然「大海人皇子」自体も「筑紫」に深い関係を持っていたと見て当然でしょう。

 以下『新撰姓氏録』より
477 右京 神別 地祇 安曇宿祢    海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
479 右京 神別 地祇 凡海連    同神男穂高見命之後也
610 摂津国 神別 地祇 凡海連 安曇宿祢同祖 綿積命六世孫小栲梨命之後也

 また「天武」の即位の際の「妃」とその子供達の列挙記事においても彼の出身についてのヒントが窺えます。

「(六七三年)(天武)二年…二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮。立正妃爲皇后。々生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女爲妃生大來皇女與大津皇子。次妃大江皇女。生長皇子與弓削皇子。次妃新田部皇女。生舎人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘。生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘。生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大甦娘。生一男。二女。其一曰穗積皇子。其二曰紀皇女。其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女。次納胸形君徳善女尼子娘。生高市皇子命。次完人臣大麻呂女擬媛娘。生二男。二女。其一曰忍壁皇子。其二曰磯城皇子。其三曰泊瀬部皇女。其四曰託基皇女。」

 ここに出てくる「天武」の「妃」達についての記事から、彼の出身地、あるいは勢力範囲などについておおよそ推定出来るといえます。
 まず後半に書かれている「初めに娶る」とされるのが「即位」以前の婚姻関係であり、「鏡王」の「女」(娘)「額田姫王」を娶ったのが最初とされますが、これは本拠がどこかやや不明ですが(この「鏡王」が「伊那公高見」であるという可能性があり、その場合は「伊奈地方」ということとなります)、彼女との間には「女子(十市皇女)」しかおらず、ついで娶ったのは「筑紫」に拠点があった「胸形君徳善」の「女」である「尼子娘」であり、「高市皇子」が儲けられています。さらに「完人臣大麻呂」の「女」である「擬媛娘」との間に「忍壁皇子」「磯城皇子」と男子がいますが、この「完人臣」とは「獣肉」を調理する立場の「完人部」(宍人部)の長と思われ、当時「猪」などの肉は輸送された後に解体し調理されるものであり、彼はそのような職掌の長たる立場と理解できます。「磐井」の墓と称される「岩戸山古墳」にあったとされる「別区」には「猪窃盗犯」に対する裁判風景が描写されているなど(『風土記』による)、「屯倉」から運ばれる「猪」の送り先は(「宗像君」同様)「磐井」などの「筑紫」の王権であったと思われ、これらのことから彼が「即位」以前に「筑紫」と深い関係があったことが推測できるものです。(どの地域にでも存在していたというわけではないのです)
 このように考えると「天武」つまり「大海人」が「筑紫君」とされる「薩夜麻」と深い関係があって当然ともいえる事となります。

 同じ事は「白村江の戦い」の「倭国軍」の出発地はどこか、という分析にも言えます。「九州北部」に基地があったという可能性が非常に高いと思われますが、「玄界灘」に面して多量の船が集結したと考えるより、背後の「筑後」に基地があったと考える方が軍事的な常識に沿っているのではないでしょうか。
 であれば、この基地もまた「筑紫君」の統治下にあったと考えられるものであり、このことから倭国軍を指揮していた「指導者」は「筑紫君」であったと推察されるものです。

 「壬申の乱」についても、その分析により主要勢力は「西海道」にあったと考えられ、たとえば『書紀』によれば「高市皇子」が参戦していますが、彼は「宗像の君」の孫であり、「宗像氏」の全面的バックアップがあったと考えられるものです。他にも「大分の君」などの西海道勢力が中心であったと考えられますから、「筑紫の君」である「薩耶麻」がこれに参加していないはずがないと思われます。(当然「阿曇」勢力も加わったとみるべきでしょう)
 また「壬申の乱」の際には「唐」関係者、と言うより「唐軍」が関与しているとする考えもありますが、そうであれば「郭務悰」達と共に帰国したとされる「薩夜麻」が関与していると言うこととほぼ同義ではないでしょうか。彼であれば、「戦略」「戦術」について「唐軍」の支援を仰ぐことは「容易」であったと考えられます。(そもそもその想定で唐軍が同行しているとみるべきでしょう)

 「大海人」が「美濃」に陣を構えたとされるのも「三野王(美濃王)」の存在が大きいものと考えられます。彼は「栗隈王」の子息であり、「薩耶麻」の有力な配下の人物であったと考えられ、彼を通じて関東(東国)に対する影響力を行使する事が可能となったものと推察されます。
 この「美濃」という地は「利歌彌多仏利」の時代の「制度改革」の中の「戸籍改定」に応じなかった地域でもあり、またその後の「庚午年籍」による造籍という「天智」の事業に応じた地域でもあったものです。
 そのため、「薩夜麻」が帰国し「近江朝廷」との対決が必至となった際には、この「美濃」という国を「範疇」に治めることが必要と考えたものと思慮され、「栗隈王」を通じて「美濃王」を懐柔することにポイントを置いていたことと思われます。
 
 これらのことは「壬申の乱」の主役は「薩夜麻」であり、「天武」(大海人)とは「薩夜麻」のことである、ということを「強く」示唆するものと考えられ、『書紀』はそれを「隠蔽」していると考えられるものです。
 「北畠親房」が著した『神皇正統記』には「天武」が「半島」からの「渡来人」である、という証拠があったがそれらは全て焼却されたとされています。本論で述べたように「天武」は実は「薩夜麻」であり、「捕囚」になっていた「半島」から「帰国」した人間であったのですから、まさに『神皇正統記』の記述はその意味では正しいと言えます。
 そして、そのような記録は一切「隠蔽」されたわけであり、それは「倭国王」の「捕囚」とそれに続く「降伏」及び「謝罪」による「放免」という「倭国王」としてはこの上ない「恥辱」とも言うべき過去を消さんが為に行われた「証拠隠滅」であったと考えられます。


(この項の作成日 2011/07/08、最終更新 2017/02/11)(ホームページ記載記事を転記)

 


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