古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「智蔵法師」という人物とその時代(2)

2016年10月31日 | 古代史

 『隋書俀国伝』には「大業三年」(六〇七年)に遣使記事がありますが、すでに述べたようにこれは実際には「隋」の「開皇年間」の事実を流用した記事と考えられ、「六〇〇年以前」であることを推定しました。記録を見るとこの時「沙門数十人」が派遣されており、この中に「智蔵」が居たという可能性もあると思われます。
 また『書紀』の「裴世清来倭」記事(以下の記事)は既に見たように「隋初」の頃の記事が移動されていると考えられることとなったわけですが、その帰国に「遣唐使」が同行したことが書かれており、そこには「八人」の人物の名前がありますが、この中には「智蔵」の名前がありません。

「唐客裴世清罷歸。…是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。」「推古十六年(六〇八年)辛巳条」

 このように「智蔵」がいつ派遣されたか記録がないわけですが、だからといって派遣そのものがなかったとは即断できません。なぜなら同様に派遣記録がない學問僧達の「帰国」記事があるからです。

「新羅遣大使奈末智洗爾。任那遣達率奈末智。並來朝。…是時。大唐學問者僧惠齊。惠光。及醫惠日。福因等並從智洗爾等來之。於是。惠日等共奏聞曰。留于唐國學者。皆學以成業。應喚。且其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」「推古卅一年(六二三年)秋七月条」
 
 ここには「新羅」の使者に同行して帰国したという「大唐學問僧」四名の名前が書かれています。しかし、これらの人名は先の「六〇八年記事」で「隋」へ派遣された人名と比較してみると、「福因」を除いた人物達はこの時の「八人」にはおらず、彼らはこの時のメンバーではなかったことが判明します。つまり彼らには「派遣された」という記録がないこととなるわけです。このことは、彼等は『書紀』に書かれていない「遣隋使」ないしは「遣唐使」の一員であったこととなると思われます。ここで「惠日」が報告した内容である「其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」という言葉の中に出てくる「大唐」については、既に考察したように実際には「隋」のことを指すと考えるべきでしょう。
 「法式が備わっている」という「恵日」の評価も特に「唐」に特定されるものではなく、「法式」が完備されたのはそれ以前に「隋」において画期的であったものですから、この「大唐」が「隋」を指すという考えは的外れとはいえないと思われます。
 そもそも彼らが「唐代」に派遣されたとすると「唐」成立が「六一八年」ですから、帰国が「六二三年」であったとすると数年しか経過していないこととなり、「唐」で「学問」のために留まっていたという表現は似つかわしくないこととなります。
 そのように彼らが「隋代」に派遣されたと見て、その後「唐」になってから帰国したとすると(たとえば「大業三年」の「遣隋使」やその後の(『書紀』には記載がないものの)「大業六年」(六一〇年)の「遣隋使」(『隋書煬帝紀』による)の場合、途中に「唐」によって「隋」が亡ぼされるという事件を挟んでいることとなり、そのような経験をした彼等の報告とすると、「違和感」の残るものです。なぜなら、この報告の中では「唐」に対する「賛美」のようなニュアンスしか感じられず、「唐」の軍事力に対する「危険性」なども報告されて然るべき事と思われるのに対してそれがないように見えるのは「不自然」であると思われるからです。またこの帰国時点ではまだ「唐」国内には反対勢力がかなり強い勢力を持っていたものであり、一概に「唐」が「法式が整った」といえるほど安定していなかったこともいえるものであり、その意味でも不審と思われます。
 
 「惠日」らの派遣が実際には「隋代」ではなかったかということは、『続日本紀』中に彼の子孫が「藥師」の姓を変えて欲しいという奏上をした文にも現れています。

「天平寳字二年(七五七年)夏四月…己巳。内藥司佑兼出雲國員外掾正六位上難波藥師奈良等一十一人言。奈良等遠祖徳來。本高麗人。歸百濟國。昔泊瀬朝倉朝廷詔百濟國。訪求才人。爰以徳來貢進聖朝。徳來五世孫惠日。小治田朝廷御世。被遣大唐。學得醫術。因号藥師。遂以爲姓。今愚闇子孫。不論男女。共蒙藥師之姓。竊恐名實錯乱。伏願。改藥師字。蒙難波連。許之。」(『続日本紀』巻二十「孝謙天皇紀」)
 
 これを見ると「惠日」については「小治田朝廷御世。被遣大唐。學得醫術。」とされていて「推古」の時代に派遣されたことは書かれていますが「孝徳朝」に「遣唐使」として派遣されたことについては何も触れられていません。以下に見るようにこの時は「惠日」は「副使」という重要な立場で派遣されており、それに触れられていないのは不審です。

「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使大錦上高向史玄理。或本云。夏五月。遣大唐押使大華下高玄理。大使小錦下河邊臣麻呂。『副使大山下藥師惠日』。判官大乙上書直麻呂。宮首阿彌陀。或本云。判官小山下書直麻呂。小乙上崗君宜。置始連大伯。小乙下中臣間人連老。老。此云於唹。田邊史鳥等。分乘二船。留連數月。取新羅道泊于莱州。遂到于京奉覲天子。於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。押使高向玄理卒於大唐。…」(孝徳紀)

 このことから「孝徳朝」の派遣は事実なのかということが問われるものであり、実際にはかなり遡上した「推古」の時代ではなかったかと推測されるものです。上に見るように『推古紀』の「惠日」については帰国記事につながる出発記事がないのもそれを裏付けるものでしょう。
 この「白雉年間」の派遣記事に続く「伊吉博徳」の証言の内容もこの「惠日」等の遣唐使についてのものではなく、その前年とされる「白雉四年」の派遣についての情報に限ったもののようであり、その意味でもこの「白雉五年」の派遣というものが本当にこの年次のものであったのか大変不審といえるものです。(六十年遡上が疑われるものです)

 これらの推定からは「惠日」等が帰国した年次についても実際には「隋代」のことではなかったかと考えられることとなり、「大業三年記事」などと同様遡上する可能性が強いと思われます。(二十年ほど遡上するか)
 そう考えると「智蔵」についてもその派遣記録がないこともあながち不自然ではないこととなり、「隋代」の派遣を措定して無理とはいえないこととになるでしょう。(続く)


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