古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「智蔵法師」という人物とその時代(3)

2016年10月31日 | 古代史

「智蔵法師」について検討しているわけですが、『懐風藻』には彼の作とされる漢詩が二首収められており、その解説には「淡海帝世、遺學唐國。」「太后天皇世、師向本朝」とされています。これらについては従来は「遣唐使」として派遣されたのが「天智朝」であり、帰国は「持統朝」と解釈されているようですが、そのような「天智朝」の「遣唐使」という考えは上で行った考察により疑問視されると共に、別の理由からも実際上成立が困難な解釈であるともいえると思われます。それは「天智朝」が未だ「戦乱」の収拾が付いてない時期であると考えられるからです。
 後でも述べますが、この時期「唐」との間にやりとりされた人物達は、「戦後処理」のための軍人と官人達に限られていたと考えられるからです。

 「百済を救う役」及びその後の「白村江の戦い」により「唐」に全面敗北を喫した「倭国政権」は、「唐」とその出先機関である「熊津都督府」から派遣されて来倭した「劉徳高」「郭務宋」「百済禰軍」達との間の戦後処理に忙殺されたと思われ、とても「学生」「学問僧」などを派遣できるような政治状況ではなかったと考えるべきであると思われます。
 例えば「井上光貞氏」などは「智蔵は天智四年に入唐し、同一〇年に帰国した」とされており、それは追認される方も多いようですが、「劉徳高」の「帰国」は「泰山封禅の儀」に参加させられることとなった「諸将」を率いていたものと考えられ、そのようないわば「微妙な役割」の諸将の中に「学問僧」などが入る余地があったとは考えられません。そのようなものは本来「友好的雰囲気」の中で行なわれるものであり、このようなタイミングで派遣することは「あり得ない」のではないでしょうか。つまり『天智紀』の「唐」への人員派遣に「智蔵」が同行したと言うようなことは考えられないと思われ、このことは「智蔵」が派遣されたのはもっと「以前」ではないかと言う事を意味するものです。

 また『懐風藻』には「智蔵」について「時呉越之間。有高學尼。法師就尼受業。六七年中。學業頴秀。」と書かれており、「中国」に渡ってから「長安」や「洛陽」ではなく「呉国」の地で学業に励んだらしいことが知られます。これについては彼がそもそも「呉人」であったと言うことが重要な要因であることはもちろんですが、これが「隋代」中のことであればまだ「呉越」地方にまだ「高学」の「尼」がいても不思議ではないと思われます。(煬帝が長安に高僧を招集する以前と考えられるため)

 また「智蔵」については「僧正」に任命された記事が複数確認できます。

①白鳳元年 智蔵、僧正に補任(「元亨釈書」他)
②天武二年三月 智蔵、僧正に補任(『僧網補任』、『扶桑略記』等)
③大化二年 智蔵、智師・慧輸とともに僧正に任命(『三国仏法伝通縁起』)

 これらの記事は相互に矛盾していると考えられますが、このうち最も信憑性が高いと考えられるのは、(通常とは異なり)実は③の『三国仏法伝通縁起』に記された「大化二年」記事であると思われます。その記事によれば「慧灌僧正」が「乙酉年」(六二五年)に「来倭」したものの「二十一年間」は「未廣講敷」とされ、多くの人間を対象とした講義が行われていなかったものと思われますが、「大化二年丙午年」(六四六年)になって「智蔵」は「智師」「慧輸」とともに僧正に任命され、「初開三論講塲」つまり「講堂」などで多くの仏教関係者に対して「三論」を講義したというわけです。

『三国仏法伝通縁起(中巻)』
「…孝徳天皇御宇大化二年丙午慧師慧輪智蔵三般同時任僧正。是三論講場日之勧賞也。…乙酉歳慧灌来朝。来朝之後二十一年未廣講敷。大化二年丙午初開三論講塲是即仏法傳日本後。経九十五年始講三論。…」

 このような経緯の詳細が「年次」を指定して書かれているとすると、一概にこの記事の「時系列」全体を否定することは出来ないと思われ、、この記事の信憑性は高いものと思料します。
 このことと先に考察した「天智朝」以前と言うことを重ねて考えると「淡海帝」と「太后天皇世」という表記については、これは一般に考えるような「天智」と「持統」を指すとは考えられないこととなります。(さらに続く)

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