古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「筑紫都督府」について

2018年07月08日 | 古代史

 久しぶりの投稿となった。理由としては公私多忙という点に尽きる。半ば介護状態にありながら、なお仕事は幾何級数的に増えている。古代史について向かい合う機会が圧倒的に減少してしまっている。そのような中でつらつら考えたことを以下に記す。

 『書紀』には「六六七年十一月」という時点で「筑紫都督府」という存在が書かれている。この「筑紫都督府」について「唐」が設置したという考え方がある。しかしそうなら「唐」朝廷は「都督」となる人物について「将軍号」を持った人物を配置すると共に「都督府」に詰めるその他の官人も全て任命したこととなる。しかし「唐側史料」にはそのような記事が一切見当たらない。また国内史料も同様であり、それらは推測の域を出ないというべきである。
 確かに「熊津都督」には帰順した「扶余隆」が任命されており、もし「倭国」にも「都督府」がおかれたとすると帰順した「薩夜麻」が適任であるようには思われる。しかし、私見ではそうとは考えられない。そのような事態があったとは想定できないのである。(ちなみに「扶余隆」は「新羅」との軋轢を恐れて着任しなかったといわれており、「都督府」設置後のトラブルの発生を予見していたようである)

 「唐」が「都督府」を設置する場合には一定の条件があったものとみられる。それは第一に「軍事」に関わることであり、危急の場合に援軍が容易に増派、救援可能な距離であることである。その意味で「倭国」は「遠絶」の地であって設置するのに適地とは言えない。間に「大海」をはさんであり、この状態では軍を派遣するといっても「万余」という数量は困難ではないだろうか。「百済」でさえも「熊津」で「鬼室福信」など旧百済軍が周囲を取り囲む事態となって「劉仁願」は窮地に陥っている。ましてや「大海」をはさんだ遠絶の地で孤立した場合を考えると、そのような地に「鎮」つまり「都督府」を設けることはほぼ考えられないのではないか。(ちなみに「鎮」とは「隋」の高祖の時代に制定された「鎮―防―戍」という辺境防備の軍組織の名称の一つであり、規定によれば「鎮」には「将」が置かれたとされる。「百済鎮将」という表現が『書紀』にあり、一般的にはこの表現は「百済占領軍司令官」的通称と理解されているが、実際には制度に則ったオフィシャルなものであったと考えるべきである。)
 また通常「都督府」がおかれる場所は戦争により帰順させた地域であり、その後の政治的安定を図るために設置するものであるから、「百済」や「高句麗」の地への設置は当然と思われるが、「倭国」は(「倭王」が降伏したとしても)その地が戦場になったわけではなく、その意味でも設置する条件を満たしていないと思われる。

 そもそも「唐」は「高句麗」については「隋」以来の仇敵といえいつかは制圧するつもりでいたものの、常にその背後にいる「百済」の影がちらついており、そのためまず「百済」を討つのが先決と考えていたわけであって、その機会を「新羅」が利用したというわけであるが、「百済」と「高句麗」については作戦の当初から征討の対象であったわけである。さらにその後はいわゆる「羈縻政策」(つまり都護府や都督府を置きそれらにより支配する)を行う予定であったわけだが、元々「倭」はそれらの対象ではなかったと思える。
 彼らと「唐軍」はたまたま戦場で出くわしたというだけであり、戦火を交えたものの「倭」と正面切った戦争を行ったわけではなかったものである。

 このように「唐」が「倭」と戦闘することはない、つまり彼らの作戦遂行の支障とならないというように見込んでいたのは、「伊吉博徳」たち遣唐使団を質に取っていたことからもうかがえる。すでに考察したが「伊吉博徳」たち遣唐使団は「長安」と「洛陽」に分かれて幽閉されることとなったものであり、それは「唐朝」は当初からそうする予定ではなかったかと考えたものである。
 この人質を取る作戦が功を奏して当初の戦いでは倭国と唐が直接戦闘を交えることはなかったわけであるが、それは「倭国」がその「唐」の意図を察知して(というか「唐」に「遣唐使団」がいるうちは「唐」と直接戦闘に入るのは彼らにとって危険と誰しも考えることではある)作戦を変更し直接「新羅」をたたくこととしたことからであろう。しかし「新羅」と戦闘になることは以前に高宗から「璽書」を下され危急の際には「新羅」に助力せよと指示されたことに反することとなるものであるから、その段階以降「唐」からは「朝敵」とみなされていたとしても不思議ではないこともまた確かと思われる。
 しかし、「唐」はそもそも「倭」を征服しようとは思わず、また征服したとも思っていなかったものであり、もちろん「璽書」に反する行動をとったことは確かであるが、そのことで「倭国」と戦争をする、あるいは滅ぼすというようなことを考えていたわけではなかったと思われる。その最大の理由はそれが「遠絶」の「大海」をはさんだ地域であるという一点ではなかったか。もちろん「高昌国」の例のように極端に反旗を翻すようであれば「懲罰」の意味で軍を派遣することもあるが、この時(太宗の時)も「唐」の制度下に置くことはしなかったものであり、その理由は軍事的負担が大きすぎるというものであったものである。そうであれば「倭国」も同様(というよりもっと悪い条件)の理由により「都督府」を設置する意義が認められないものであり、それが「唐側史料」に「筑紫都督府」関連の記事が見られないという事実に現れていると思われる。

 ではこの「筑紫都督府」とはどのようなものであり、誰が設置したものであろうか。

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