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オオムラサキ活動センター>埼玉県嵐山らんざん町>オオムラサキの森

2024年08月06日 15時05分50秒 | 日々の出来事
嵐山町のオオムラサキ活動センターです⭐

今年最後の、オオムラサキの放蝶会です。オオムラサキの雌を放しました。

ことしは、50頭ほどの成虫が巣立ったそうです。




7・20・2024
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おい、聞いていた話と違うぞ!新NISAで投資デビュー「退職金2,000万円」を全額つぎ込む60歳定年サラリーマン、「日経平均大暴落」に悶絶

2024年08月06日 14時08分04秒 | お金のこと

銀行員の話を鵜呑みにしては駄目ですね☆









おい、聞いていた話と違うぞ!新NISAで投資デビュー「退職金2,000万円」を全額つぎ込む60歳定年サラリーマン、「日経平均大暴落」に悶絶
8/6(火) 6:02配信




THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン)
(※写真はイメージです/PIXTA)


パリ五輪で盛り上がっているなか、「オリンピックどころではない!」と気が気でない投資家も多い株価の大幅下落。なかでも今年、新NISAスタートと同時に投資デビューを飾った人たちにとっては、初めての試練ともいうべき大事件で、顔面蒼白になっている人も多いようです。


【早見表】毎月1万円を積み立て「預金」と「NISA」を比較…5年~40年でどれくらい差がつくか


史上2番目の下落幅を記録!株価暴落で戦々恐々とする投資家たち
8月5日の日経平均株価は、前週末比660円34銭安の3万5,249円36銭と3日続落してスタート。さらに5日10時現在、下げ幅は2,500円を超え、3万3,000円台。今年1月上旬以来、約7ヵ月ぶりの安値水準となりました。


円高の進行や米景気の先行き不安を背景に、8月2日の日経平均株価は急落し、2,216円安と史上2番目となる下落幅を記録。ちなみに、これまで最も下げ幅が大きかったのは1987年10月20日。米国株急落が世界に飛び火した「ブラックマンデー」によるもので、前日から3,836円安。下落率は14.9%。


さらに5日午後の取引でも下落は続き、終値は3万1,458円.42銭。4,451円28銭安となり、ブラックマンデー超えの史上最大の下げ幅となりました。


そんな株価の大暴落に顔面蒼白にしている人も。今年、60歳定年を迎えた男性もそのひとり。


――おいおい、聞いていた話と違うぞ!


男性は何を聞いていたのかというと、


・まだまだ株価はあがる。この機会を逃してはいけない


・新NISAを始めるなら、いましかない


・退職金を運用して老後に備えるべき


男性は40年間勤めていた会社で定年を迎え、2,000万円ほどの退職金を手にしました。男性の会社では、退職金を一時金として受け取る方法と、年金として受け取る方法のどちらも選ぶことができ、男性は一時金として一括で受け取ることを選択したといいます。


男性は定年後も再雇用制度により、これまでの会社で勤務。ただ正社員から嘱託社員に変わり、給与は月40万円→月25万円。賞与も正社員時代と比べて大幅に下がり、年収にするとそれまでの半分程度に。


――収入が大きく減ることは聞いていたが


老後に向けて、コツコツと貯金をしてきた男性ですが、それまで年齢と共に収入があがっていくことしか経験のなかったため、大きく収入が減る事実に大きな不安に襲われたといいます。


そんなとき、退職金の振込先である金融機関から1本の電話。それは退職金を手にした人を対象にした「資産形成セミナー」へのお誘い。男性は藁にも縋る思いで参加を決めたといいます。

退職金全額を使って「新NISAで投資デビュー」という暴挙に出てしまった
セミナーで聞くことができたのは、昨今の経済状況と退職金の運用について。そこで耳にしたことはあったものの、何かよく分からなかったNISA制度について詳しく知ることができました。


それまで投資など自分には関係のない話だと考えていた男性。しかし老後の安泰を考えるのであれば、さらなる資産形成を考えるべき……「よしっ!」と一大決心をし、新NISAで投資デビューを果たします。


――初心者なら日経平均に連動するインデックスファンドがおすすめ


そんなアドバイス通り、投資信託を購入した男性。順調な滑り出しに見えましたが、ここにきて株価が大暴落。顔面蒼白になり、悲痛な言葉を綴っています。


――俺の退職金、俺の退職金……どうしてくれるんだよ!


多くの投資家に衝撃を与えている株価の大幅下落ですが、男性はあろうことか、年間投資枠の上限いっぱいを使い、さらに退職金のほぼすべてを投資に回してしまったらしく、気が気でない様子。「もうダメだ、全部売る!」と完全にパニック状態に陥っています。


退職金の運用でよくある失敗といえば、


・勧められた金融商品を理解せずに購入してしまう


・退職金の全額を一度に運用してしまう


・退職後の支出入を考慮せずに投資してしまう



特に退職金で投資デビューというケースでは、日々の値動きに一喜一憂しがち。「何も手につかない……」と、免疫がない人ほど、ドツボにハマってしまうことは珍しいことではありません。


また怪しい詐欺まがいの投資に引っ掛かってしまう人も。最近はSNSを駆使した投資詐欺が増加傾向だといいます。警察庁が発表した『令和6年1月~3月におけるSNS型投資・ロマンス詐欺の認知・検挙状況等について』によると、今年3ヵ月の間に、報告件数は1,700件、被害総額は実に219億円。男女ともに50~60代の被害が多く、半数以上を占めています。


退職金の全額を投資に回すという極端な行動に出てしまった男性。今回の株価暴落もひとつの勉強だと思って、堅実な資産形成を進めていってほしいものです。


[参照]


警察庁『令和6年1月~3月におけるSNS型投資・ロマンス詐欺の認知・検挙状況等について』








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盛岡で45年続いた老舗「柳家」本店の閉店に、コロナに負けないラーメンへの情熱をみた>>新規開店の「柳家」情報を追加

2024年08月06日 12時06分05秒 | 食のこと
麺処・盛岡で45年続いた老舗「柳家」本店の閉店に、コロナに負けないラーメンへの情熱をみた

>>新規開店の「柳家」情報を追加しました。
盛岡市映画館通り

10月初旬、岩手県盛岡市で45年愛された老舗ラーメン店「柳家」本店が閉店するというニュースが飛び込んできた。看板メニューである「キムチ納豆ラーメン」は押しも押されもせぬ盛岡のソウルフードとして人気を博し、初代店主の大信田和一さん(79、現会長)が気合を込めてラーメンを作る姿は、街のシンボル的な存在だった。閉店の背景には新型コロナウイルスの存在があったという。


名店の閉店を惜しみながら「柳家」本店に取材に向かった筆者を待っていたのは、打ちひしがれることなく、ラーメンへの衰えぬ情熱を糧に、再起をはかる男の姿だった。 

当初はラーメン店ではなかった柳家


「柳家」は、もともとラーメン店ではなく、岩手県稗貫郡の大迫町(現在の花巻市)で、手打ちの生そばが人気の食堂として営業していた。ただ、大迫町は宿場町として栄えていた町ではあったが、和一さんは過疎化でこれから人口が減っていくことを危惧し、岩手の中心である盛岡への移転を決意。盛岡市大通で当時一番路線価が高かったという大通商店街にある「さわや書店」の3階で、手打ちそば屋として1975年に営業を再開させた。 


11/3/2020


「親からは『大迫から出るなんてそんなバカな話はあるか』と怒鳴られましたが、家族を幸せにするために盛岡に出てきたんです」(和一さん) 
場所は「さわや書店本店」の3階


「2階以上の飲食店は繁盛しない」という声を尻目に、さわや書店に1日3000人来店するならその10%の300人は来るだろうという算段で、強行的に開店を決めた。しかし、その目論見が裏目に出て、オープン後の客足は伸び悩んだ。その上、看板商品の日本そばは、全く売れなかった。 


そんな数少ないお客さんを相手にする苦しい中、思わぬメニューから光明が見えた。 

和一さんが10代の頃、盛岡駅前の仕出し屋で丁稚奉公をしていた当時に、店のご主人に作ってもらった納豆汁。現在から60年以上前に和一さんの心を動かした、その味を思い出してラーメンにアレンジした、「納豆ラーメン」だ。 

一見シンプルなアレンジに見える、この納豆ラーメンが売れた。納豆ラーメンを食べた新聞記者が記事にしたことで、大きな話題にもなった。それまでは毎月の家賃を滞納するほどギリギリの状態だったという。 

そして「柳家本店」開店から8年後。和一さんは日本そばの提供をやめ、ラーメン専門店へとのれんを架け替えることを決意するに至る。 

思わぬ組み合わせから生まれた、看板「キムチ納豆ラーメン」
ある日、女将である妻・良子さんがまかないで納豆ラーメンを食べていた時、香の物としてかたわらに置いていたキムチをラーメンに入れてみると、その相性が抜群であることに気づく。それが「柳家」の屋台骨を支える人気メニュー「キムチ納豆ラーメン」誕生の瞬間だった。 
キムチ納豆ラーメン


「大豆の甘みというのは何物にも代えがたい味で、それは開店当時も今も変わりません。当時は『こんなのラーメンじゃない』とバッシングされましたが自然にこれがみんなの味になっていったんです。私の味というだけでなく、お客さんに支えられた味なんです。明日死んでも悔いはないという気持ちで毎日作ってきました」(和一さん) 

また、近所のラーメン店と張り合うのではなく、独自の味とネーミングのものを出せば、周りと比べられることはないというのが和一さんのポリシー。「キムチ納豆ラーメン」はまさにその代表格であり、その中毒性の高さもあって、店へ通う常連のお客さんの数も日に日に増えていった。3階までお客を呼ぶために和一さんが「いらっしゃいませー!」と大声を張り上げるのも有名になった。 

初代店主・大信田和一さんは79歳

麺料理のさかんな盛岡では、寒い土地でも作りやすいそばを椀で食べる「わんこそば」、満州のメニューをアレンジした「盛岡じゃじゃ麺」、朝鮮から伝わった「盛岡冷麺」が盛岡三大麺として有名。 

一方、盛岡のラーメンといえば、昭和の初めから「中河」「たかみ屋」「日光軒」(閉店)などに代表される醤油ラーメンが人気だった。とはいえ、醤油ラーメンが全国的には珍しいものではない中で「柳家」のキムチ納豆ラーメンが目立った存在として頭角を現してきたのだ。 


80年代には「キッチンあべ」のカツカレー、「とんかつ熊さん」のスタミナ味噌ラーメンとともに盛岡のソウルフードとして人気は頂点に達する。 
「柳家」のキムチ納豆ラーメンはその製法自体が複雑であるわけではない。それは、「柳家」がもともとラーメン店ではなく、そば屋の1メニューとしてラーメンを始めたところに端を発する。日本そばをやりながらでも作れるレシピだったのだ。和一さんの二男である現社長・大信田和彦さん(46)は語る。 


「『柳家』のラーメンはしっかり作り方を覚えれば誰でも作れますし、夜中にスープをかき混ぜ続けるような工程もなく、スタッフの労働時間も適切に保つことが可能です。そうすることで店を長く“続ける”ことができますよね。こういう店は長く続けていくことこそが大きな価値だと思っています。 


『柳家』のラーメンを食べたいというのはもちろん、『オヤジさんに会いたい』と思って来てくれる人がたくさんいるんです。それは親父のお客さんを喜ばせたいという強い気持ちと、今までの経験と苦労の結晶で成したものだと思うんです」(和彦さん) 

厨房に立つ初代店主・和一さん
和一さんは、「誰が食べても美味しいというものを追いかけるよりも、10人食べたら1人が強烈に美味しいと思うものを作るべきだ」と言っていたという。「キムチ」と「納豆」という、敬遠する人も多い食材を合わせたことで強烈なファンを生んだのだ。ラーメンの流行は時代に合わせて変わる中、「トレンドを見ないで自分の道を突き進むことの大切さを知った」と和彦さんは言う。 

さらに、地元のお客さんをもてなすには地元の食材を使うべきだと、2008年からは小麦の自家栽培に取り組んでいる。故郷である大迫町と紫波町に農園を持ち、合計12haで「ゆきちから」を栽培し、オリジナルの小麦粉「○ッ粉(わっこ)」として製麺に使用している。納豆も岩手県産だ。 


「商売人として最後の舞台を用意してくれ」始まる柳家・第2章
そんな「柳家」も、今年の新型コロナウイルスの影響で大打撃を受けた。本店の4~9月の売上は前年比の4割減。このまま営業を続けていても会社が厳しくなることは見えている。さらに、たとえコロナショックが終わったとしても、元の売上には戻ることはないと、現社長の和彦さんは感じていた。結論として、「昼(10~15時)しか営業していない本店は効率が悪く、畳むしかない」と判断に至った。本店の営業時間を延ばして売上を保つことも考えたが、店舗が書店の3階にあるということからも、深夜まで営業することは難しかったのだ。 

「このことを相談すると、親父の目が死んでいなかったんです。『ここで倒れるわけにはいかない。商売人として最後の舞台を用意してくれ』と言うんですよ」(和彦さん) 

そこで、和彦さんは、昼のみ営業している本店と、夜のみ営業している大通2号店、そして既に閉店したアスティ緑ケ丘店を統合して、新たに総本店を作ろうと考えた。昼から深夜まで長く営業できる大きな路面店を作ることで再起しようと考えたのだ。 

本店は11月3日で閉店とし、「柳家」の再出発の地として12月には同市大通の映画館通りに総本店をオープンさせる。創業者であり、現会長の和一さんはここでも厨房に立つ予定だ。 




「この大変なご時世に借金をしてまで新店を作ろうというのはあり得ない話です。小さなラーメン屋がこういう意気込みを持てることは幸せなことだと思っています。とにかく私は人が恋しい。人が喜ぶことを続けたい。倒れるまでラーメン作りを続けたいんです」(和一さん) 

>新規開店の「柳家」情報>
岩手のらーめん 柳家 (ramen-yanagiya.com) 
http://www.ramen-yanagiya.com/m)
柳家グループ総本店『温故知新』
新型コロナウイルス感染拡大により、営業時間・定休日が記載と
異なる場合がございます。
ご来店時は事前に店舗にご確認ください。
住所〒020-0022
盛岡市大通2丁目1-23 サンクィーンビル1階TEL019-651-9100営業時間月曜日~土曜日 11:00~27:00
日曜日 11:00~22:00

定休日なし 




今も毎朝5時からジョギングをして体作りをし、プロとして元気な体でお客さんを迎える準備は怠らない。 

45年続いた創業の地から「柳家」の名前がなくなることは、地元のファンにとって大きな衝撃だが、和一さんは諦めていない。「柳家」の第2章がこれから始まるのである。 



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「原爆投下は正しかった」アメリカ人の56%>【被爆70年】 しかし若者を中心に徐々に減少(調査)

2024年08月06日 11時06分55秒 | 歴史的なできごと
もう少し前では、7割の米国人が原爆投下を肯定していましたね。


【被爆70年】「原爆投下は正しかった」アメリカ人の56% しかし若者を中心に徐々に減少(調査)

2015年08月10日 17時07分 JST                      |         更新                     2015年08月10日 19時46分 JST 


HIROSHIMA, JAPAN - AUGUST 5:  A visitor passes by a wall displaying a picture of the mushroom cloud pictured when the atomic bomb was dropped on August 5, 2004 in Hiroshima, Japan. Tomorrow Hiroshima will mark the 59th anniversary of the dropping of the first atomic bomb in Hiroshima at the Hiroshima Peace Memorial Park. (Photo by Junko Kimura/Getty Images)

広島と長崎への原爆投下から70年。両市での平和祈念式典には国内外からさまざまな世代の人々が詰めかけ、核廃絶や平和への思いを新たにした。しかし、アメリカの大手民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの世論調査によると、アメリカ人の56%が今も日本への原爆投下を正当化している。



同センターが2015年4月7日に発表した調査結果によると、アメリカ人の56%が原爆投下は「正当」と答え、「不当」は34%にとどまった。一方、日本人は14%のみが「正当」と回答、79%が「不当」と答えた。


とはいえ、日本への原爆投下を正当化する見方は徐々に減っている。アメリカ世論調査会社のギャラップが原爆投下直後の1945年に行った調査によると、当時はアメリカ人の85%が日本の2つの都市への原爆投下を支持した。また、アメリカ・ミシガン州の「デトロイト・フリープレス」紙が1991年に日本とアメリカの両国で行った調査によれば、アメリカ人の63%が原爆投下を正当化する一方、29%が不当と答えた。そして、ピュー・リサーチ・センターの2015年の最新の調査では56%が「正当」と答えるにいたった。
     
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■ 若い世代では数値が逆転 
             

イギリスの世論調査会社のユーガブが7月に行った調査によると、アメリカ人の46%が日本への原爆投下が「正しい」と答え、29%が「誤り」と回答した。しかし、若い世代では原爆投下を批判する見方が強く、18~29歳と30~44歳の年齢層では、原爆投下を「誤り」とする回答がそれぞれ45%、36%を占め、「正しい」とするそれぞれの31%、33%を上回った。


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広島原爆忌>爆心2.6キロ 16歳が写した原子雲「見たことない大爆煙」 #戦争の記憶

2024年08月06日 10時05分39秒 | 歴史的なできごと
爆心2.6キロ 16歳が写した原子雲「見たことない大爆煙」 #戦争の記憶




原爆爆撃機 エノラゲイのパイロットが目標にした「相生橋」やじる

8/5(金) 10:00配信






米軍による広島、長崎への原爆投下から今年で77年。核兵器の非人道性を証言してきた被爆者が高齢化し減少する中、その惨禍を記録した写真の役割は増している。撮影者の「あの日」の体験や、写された街や人の被害をたどり、その意味を見つめ直す。



 きのこ雲の下で何が 8月6日とらえた5枚の写真  

湧き上がる巨大なきのこ雲を仰ぎ見るように捉えた4枚の写真がある。建物の軒や松の枝が映り込んだカットはどれも少しずつ角度が異なり、刻々と形を変えていく原子雲をフレームに収めようとした撮影者の心情が読み取れる。

1945年8月6日、広島に原爆が投下された直後、当時16歳だった深田敏夫さん(2009年に80歳で死去)が爆心地の南東約2・6キロの地点から撮影した。

  深田さんは旧制崇徳中を4年で卒業した後、在学中から継続する形で陸軍兵器補給廠(しょう)(現広島大霞キャンパス、広島市南区)に動員されていた。「学友のなかでカメラに熱中している者がかなりいて、私もその一人であった」(広島原爆戦災誌、1971年刊)。

45年8月6日も、ズボンの後ろポケットには小型カメラを入れていた。  本人の証言や手記から、深田さんのあの日の撮影状況をたどることができる。

  出勤途中にパンクした自転車を押して、汗だくで兵器補給廠に到着。ぎりぎりで間に合った朝礼を終えて、その日の作業現場だった赤れんがの兵器庫前で指示を待っていると、突然の閃光(せんこう)を感じた。とっさに建物の中に走り込んだ直後、爆風に吹き飛ばされた。 

 「兵器庫の中は、砂と埃(ほこり)で一瞬のうちに暗やみとなり、私はずっと更に奥の方へ転がされていた」

軍施設2階から撮影 最も近距離のショット



陸軍兵器補給廠

 差し込む光を頼りに、ゆがんだ鉄扉の隙間から外に抜け出す。西の空を仰ぐと「見たこともない大爆煙」が空に立ち上っていた。 

 「思わずポケットに手がかかる。だが、ここは兵器廠内である。見つかれば銃殺ものである」。軍施設での撮影は許されないと分かっていたが、友人に見張りを頼み、2階北側の窓から立て続けにシャッターを切る。原爆投下後に上空からきのこ雲を撮った米軍の写真と違い、全体像は見えなかった。「世界最初の原子爆弾の爆煙であるとは、夢にも思わなかった」 

 その頃、廠内には混乱が広がっていた。同じ場所にいた多くの動員学徒の手記から、その一端を伺うことができる。  

「木造の建物は殆(ほとん)どが倒壊し、頑丈な赤煉瓦(れんが)の廠舎(しょうしゃ)の窓ガラスは粉々に飛び散っていた。衣服が破れ、全身が埃(ほこり)まみれになった兵隊や作業員が右往左往している。血を流している者もいる」「兵器庫内にて被爆、ガラス傷等で血だらけになる」「野外で作業していた連中は、多かれ少なかれ、火傷を負っているように思われた」(旧厚生省被爆者実態調査など) 

 深田さんはこの混乱の中、とっさに4枚の写真を残した。原爆のさく裂から5~10分後とみられている。広島の原子雲を地上から記録した写真は20枚余りが確認されているが、最も近い場所からの撮影だった。

さく裂2分後の写真も 「これが原爆」

水分峡

 深田さんよりも早い、さく裂の約2分後に撮影したとされるのが、広島県府中町に暮らす山田精三さん(94)だ。当時は17歳。夜間中学に通いながら、中国新聞社でアルバイトをしていた。8月6日は爆心地から約6キロの水分峡に友人と出かけていた。

  水分峡の入り口に差し掛かったころ「目の前でフラッシュをたかれたような」光が突然広がり、ドカーンと地響きがした。松林が大きく揺れ、巨大な雲が上がっていく。



「なんじゃ、あれは。きれいじゃのう」。とっさに持参していた蛇腹式のカメラを向け、シャッターを切った。その下で起こっていた惨状を知るのは、午後になって麓に降りてからのことだった。 

 写真が世に出たのは、連合国軍総司令部(GHQ)により戦後のプレスコード(検閲)が敷かれていた翌46年のこと。7月6日発行の「夕刊ひろしま」で「世紀の記録写真」「原子爆弾炸裂(さくれつ)の直後、茸(きのこ)型に開いたところ」と紹介された。現在は原爆資料館(広島市中区)に大きく引き伸ばされ展示されている。「100年後に写真を見た人が、これが広島に落ちた原爆じゃということを知ってほしい」。直後の記録に、山田さんは願いを託す。


「広島方向は真っ暗」 40キロ先から撮影

織田吾郎さんが爆心地から約40キロ北東の現安芸高田市から撮ったきのこ雲。生前の本人の証言によれば、原爆投下から約20分後の撮影


 
巨大なきのこ雲は、約40キロ離れた県北の地でも目撃されていた。広島県高田郡本村(現安芸高田市美土里町)で農林業を営んでいた織田吾郎さん(99年に86歳で死去)が、その光景を写真に収めている。 

 当時32歳。高台にある自宅の台所で閃光を感じて外に出ると、南の山の向こうに異様な雲が見えたという。最初は桃色のシュークリームのような形。「みるみる雲が膨らみ、広島の方向が真っ暗になった」と、86年8月3日付の中国新聞の記事で証言している。 

 写真が趣味だった織田さんは、愛用の二眼レフを持ち出して3枚を撮影した。家族が保管し、今も残っているのはこのうち2枚。原爆投下から約15分後と約20分後の撮影だと本人が証言している。2枚を比べると、山の上にのぞく雲が5分の間に広がった様子が分かる。 

 織田さんはその後、広島市中心部にあった義父母宅へと向かい入市被爆した。義父は本村で手当てを受けたが、12日後に息を引き取った。織田さんは自ら被爆し、また家族を亡くした撮影者でもあった。 

 撮影した写真は「高田郡史」など郷土資料に掲載されたほか、広島県安芸高田市歴史民俗博物館で1枚が展示されたものの、広く知られる機会は少なかった。現在は広島市中区の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の企画展で展示されている。同館の橋本公学芸員は「40キロ離れていても、雲がこれほど大きく見えたのだと肌で伝わる貴重な写真だ」と展示の意図を説明している。

多くは語らぬ撮影者 写真の保存に尽力



 貴重な歴史記録であるきのこ雲の写真を残した撮影者たちは、必ずしも自らの撮影行為について多弁ではなかった。陸軍兵器補給廠から4枚を撮影した深田さんもまた、多くを語らなかったという。妹和子さん(91)=中区=は「家族に原爆の写真の話はしなかった。悲惨な光景を思い出したくなかったのでしょう」と振り返る。  

それでも深田さんはカメラ店を営む傍ら、78年に結成された「広島原爆被災撮影者の会」に加わり、原爆記録写真の保存に携わった。解体が進む兵器補給廠の建物にもカメラを向けた。  

深田さんの戦後にも爪痕を残した「あの日」の写真は、兵器補給廠、つまり現在の広島大霞キャンパスのどこから撮影されたのか。キャンパスの発掘調査をした同大の藤野次史名誉教授(考古学)の協力で、撮影地点の特定を試みた。

「二号館」「兵器庫」といった本人の証言と戦前の兵器補給廠の配置図を照合すると、キャンパス北西部にある立体駐車場の南東辺りの可能性が高いと分かった。


  しかしキャンパスは再開発で大きく姿を変えた。撮影地点に立って周囲を見渡しても、今や当時の様子をうかがい知ることはできない。ただ、残された深田さんの写真には、何が起きたのかも分からないまま、この場所から巨大な雲を見上げた1人の少年のまなざしが刻まれている。そのネガは自宅で大切に保管された後、深田さんが亡くなる5年前、2004年に原爆資料館に寄託された。    

 ◇  

この記事は、中国新聞とYahoo!ニュースの共同連携企画です。ロシアによるウクライナ侵攻で核兵器使用への懸念が強まっています。繰り返されてはならない惨禍を世代を超えて伝える写真の意味を被爆地広島から考えます








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